地球族日記

ものかきサーファー浅倉彩の日記

タテヨコナナメ。房総ロードムービー中編

2008年06月25日 | お仕事日記
第5幕 夏至の夜

ブラウンズフィールド(以下BF)では今、アイガモの子どもたちがピイピイすくすく大人への階段を上っている。アイガモ農法は、田に放ったカモが草の種を食べてくれるというものだけれど、実際には(というかBFでは)食べない。らしい。だから、てっぺいは毎日、草取りをしている。また、前回来たとき、かよわいカモをカラスの襲撃から守るため、鈍く光る化繊のひもを、田の真ん中から放射線状に張った。ひもはからまるわ足は田んぼにとられれるわで、なかなか骨の折れる作業だったけれど、防御のないとなりの田んぼにも、カラスは来ない。らしい。

自然は、そうやってあっさりと、こっちの期待や打算を裏切る。そのがっかりは、調和できた時の幸福感と背中合わせだ。スープにやられまくってもういや!って思っても、いい波に乗れるとそのつらさをすっかり忘れるっていう話につながる。

アイヌを先祖に持つ男てっぺいは、会うたびに野性味を増していくBFの農業担当。カモに夕ご飯をやりに行くのに着いて行くと、田んぼから数メートルの距離に近づいたところで彼がひとこと「もうあいつら気付いてる」とつぶやいた。都会で野性にフタをして生活している私はてっぺいに遅れること数秒、カモたちが我先にと私たちの方に泳いでくるのに気が付いた。ひょこたんひょこたん全速力、カモリズムで体を揺らしながら。焦って前のめりになっちゃっててかわいい。小屋で手からエサをあげてみたら、手のひらをつつくカモのくちばしがこそばゆかった。

母屋への帰り道、カモたちの行く末について尋ねてみた。「カモを絞めて売っている人がいて、その人にひきとってもらってるみたい。」「そっか、じゃあちゃんと食べてるんだね。」と私。「うん。でもそれもどうかと思うんだよね。だから今年は自分たちで絞めて最後まで見届けたい」てっぺいは、そう言った。私も賛成だった。「大草原の小さな家」みたいに、木のほらにいぶし器をつくって、鴨のローストをつくったらいい。みんなで感謝して、おいしく食べたらいい。

夏至の夜。できたばかりのティパでろうそくに明かりを灯した。ティパは先住民族の住居、ティピとパオの間の子で、沖縄北谷にある高橋歩のビーチロックハウスのスタッフたちが建てた巨大傘と蛇腹格子壁の小屋だ。柱はなんと、一本。私が着いたとき、1ヶ月近く滞在したビーチロック隊がちょうど帰っていくところで、旅立ち直前の宙に浮いてふわふわした時間に、はっきりしない寂しさとはっきりとした達成感が漂っているのがわかった。

カフェからつづく、丸太を飛び石状に埋め込んだアプローチや小枝を組んでつくったフェンス、階段とドアにかかった虹のペイティング、そして傘の骨を支えるパーツに描かれたオウムの絵。もう感動通り越してそのセンスに脱帽。ほったらかしとナチュラルは違う。むやみに飾り立てることとデザインすることもまた、似て非なるものだ。両者にはっきりとした境界線はなく、見る人が心地よいかどうかが評価の分かれ道なのだけど、あのティパは、間違いなく、ナチュラルにデザインされたすばらしい建築だった。

シネマが、パウンドケーキの失敗作(!)をリメイクした揚げだんごの甘酢あんかけがおいしい。日々の営みの底に中島デコさんのマクロビオテックDNAが流れるBFのごはんは、どれも珍しくて、本当においしい。肉も魚も卵も乳製品も、動物性のものを摂らないビーガン料理だけれど、何かを我慢しているという禁欲意識は不思議と生まれてこないのだ。食べられない何かよりも、キヌアとかテンペとか、知らなかったおいしい食材に胸がときめく。料理は宇宙の魔法だ。

そして、新米ギタリストてっぺいとるーちゃんのライブ。リロアンドスティッチのリロにそっくりなるーちゃんは、独特のリズムを持った女の子で、その声はしゃべっているときも、周りがどんなにうるさくても、光のようにまっすぐに届く。「どうしてだろう、こんなに涙が出るのは」という歌詞で始まる切ない唄だった。誰かのことを、まっすぐに好きでいる人の唄だった。

ビーチロック隊の居残りチーム、建築士のいくちゃんと「松本人志のすべらない話」を見てひとしきり笑い、眠りについた。

第6幕 映画監督

夜中の3時。こういちが到着して私を起こし、エコビレッジの候補地の視察に向かった。BFが活動を始める8時ごろまでに戻って来たかったので、大嫌いな早起きをゴリっと敢行。そうして一年で一番短い夜は、じっさいもんだい短い夜になった。こういちの車の後部座席に乗り込むと、助手席には、同級生だという映画監督ケンが乗っていた。ロンゲというより長髪で、線が細い彼が「最近ずっとこもって脚本書いてたんです」とか言うもんだからがぜん興味がわいちゃって、根掘り葉掘り映画づくりについての質問を浴びせてしまった。ていうか、私も映画の脚本が書きたいのだ。要するに。

「どんな話なのか聞いてもいい?」と好奇心を抑えきれずに聞いた私に、ケンはキッパリとした口調で答えてくれた。
「主人公は売れない童貞の作家なんですけど、」お~ そう来たか、なんやかんや想像が膨らむ設定だなー。
「ある人に出会って愛を知るんだけど、やっぱりちゃんと愛せなくて」ほ~ 今の私は、人をちゃんと愛するってどういうことか全くわからないなー
「ひょんなことから彼女が亡くなっちゃうんですね。で、彼女には子どもがいて、あ、彼女は風俗嬢なんですけど」
「残された子どもの父親を捜しに行った先で、、、、(この先、忘れました)」
風俗嬢、のところで頭に電気が走った。童貞と風俗嬢という設定は、理にかなっている。そのことで、ストーリーが一気に明快になり、主人公の気持ちや先の展開を想像しやすくなった。つまり、人は安心して続きを想像しながら進んで行けるわかりやすい設定の物語を求めてる。そういうテクニックがあるんだな。って、勝手に勉強になったつもりになった。私が書きたいと思っていることを伝えると、ケンは「伝えたいメッセージをはっきりさせることが大事です。それから、セオリーがあるからそれを勉強すると役に立つのと、あとはどれだけたくさん書いたかですね」と言った。勉強してみよう、そして、たくさん書こうと思った。(私って単純!)私が伝えたいメッセージは何だろう。私の部屋にある何冊かのノートには、書き始めて途切れたままの小説が5つぐらいと、何とか書き終えた短編が3つくらい、日々の日記のまにまに眠っている。それらには特にメッセージはなくて、センチメンタリズムやコンプレックスや嫉妬みたいな人間の(というか私の)心にある感情を背景設定や登場人物の言動に乗せただけだ。それはそれで、書くのが楽しい。でも、私が伝えたいメッセージは何だろう?「自然はすばらしい。自然と両想いになると幸せだ。」今のとこそれだけかな。

彼は、「映画や物語で人を泣かせることは簡単だけど、真正面からぶつけて無理やり泣かせたり感動させるストーリーんじゃなくて、隣にひっそりと寄り添って、じわじわと感動がわいてくるようなものをつくりたい」と言っていた。(と私は解釈した。)聞けば23歳。気が散らないのだろうか。

映画のクライマックスシーンでヒーローとヒロインが熱い抱擁をしていそうな雨の中、あんぱんをかじりながら鴨川まで北上。34号に右折して、東京湾フェリーの乗り場がある浜金谷までの道をくねくね走行していった。有名な棚田、大山千枚田を通り過ぎ、田んぼのど真ん中に立つコロッケ屋さん気をとられ、森から沸き立つもやや、ワイパーを凌駕してフロントガラスを侵略する水をボサッと眺めながら睡魔と戦った。早起きだけは、ホントに体が受けつけない。

外房と内房をつなぐ一本道に突如現れたナゾの店「バラエティショップ なな」の向かいを右折。「ななさんが美人なのかどうか」についてアツく語る男二人の会話を聞き流しつつ、こういちの先生のご両親がもう使っていないという家に到着した。ここが、夢の舞台になるのかな?

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