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偽ユダヤによって捏造されたプーチン像と歴史をくずす

「闇の正体は偽ユダヤ」海外記事の移行。 

ザハロワさんのダーチャ / ピョートル大帝 ・ サンクトペテルブルク

2016-11-01 14:19:59 | 感じるロシア


10.31 ロシア外務省報道官、ポーランド軍人らとウォッカを飲む(動画)

ロシア外務省のマリア・ザハロワ報道官は、ポーランドの軍事愛国協会「クルスク」のイェジー・ツィツァ会長と仲間らをモスクワ郊外のソルネチノゴルスクで接受した。

郷土史博物館「ヴィストレル」でザハロワ氏は「めでたき出会い」を祝してウォッカを飲み、兵士の粥を試食した。のち自らのダーチャに招き、敷地内で見つかった第二次世界大戦時のスリーブ、ヘルメットなどを披露した。 ポーランドのボランティア組織「クルスク」は第二次世界大戦中にポーランドで戦死したソ連兵士の遺骨収集と埋葬地の清掃管理を行っている。









ピョートル大帝


ロシアという国は強いリーダーが登場するたびに、その下で急速に発展する歴史を繰り返してきました。イワン大帝、ピョートル大帝、エカチェリーナ二世などがその例です。

その中でもピョートル大帝(1672年~1725年)は、ロシアを後進的な農奴の国からヨーロッパの強国へと押し上げた功労者であり、ユニークなリーダーシップを発揮しました。







ピョートル大帝以前のロシアは、タタール人からの脅威に晒されて、彼らのやりたい放題、蹂躙されてきました。


ピョートルの母、ナタリヤ・ナルイシキナは皇帝アレクセイの重臣の、アルタモン・マトヴェイエフの養女としてマトヴェイエフ家で育ちました。 たまたま奉公先が重臣の家だっただけで、ごく普通の娘だったわけです。


マトヴェイエフの家では西欧から来客があるたびに晩さん会が開かれ、ナタリヤはそのホステスとして食事を運び、時にはちょっと会話に参加して接客したわけです。これは当時のロシアの女性ではありえないことです。


皇帝の意向に逆らうわけにはゆかず、ナタリヤはアレクセイの妃になり、男の子、ピョートルを授かります。



アレクセイが死ぬと、第一正妻の側のフョードルが皇帝になりますが、フョードルが死ぬとピョートルに帝位を持って行かれるのを快く思わないソフィアが銃兵隊をそそのかし、皇帝の住まいのあるクレムリンに攻め込んで、狼藉を働きます。


ナタリヤが嫁ぐ時、マトヴェイエフ一家が恐れたことが現実となったのです。


ピョートルは危ないところで命だけは助かり、その後、ソフィアがイヴァンとピョートルの摂政になるというカタチで、権力の座につきます。この事件が起きたのはピョートルが10歳の時でした。


このときのトラウマ体験でピョートルはモスクワやクレムリンが嫌いになります。

また本来、皇室を守る筈の銃兵隊が謀略に利用されたことから、銃兵隊に対しても猜疑心を持ちます。さらにソフィアの側に回ったロシア正教会に対しても恨みを持ちます。



形式的にイヴァンとピョートルは帝位を分け合うというカタチになっているものの、実際にはソフィアが摂政として実験を握っており、

ピョートルとナタリヤは郊外のプレオブラジェンスコエに移ります。つまり体よくクレムリンを追い出されたわけです。



やがてピョートルはクレムリンに戻り、ソフィアを追い落とします。


ピョートルは臣民に「ロシア風の長い髭を生やすのなら、それに課税する」と宣言します。これは日本のチョンマゲ禁止と似ています。


造船のノウハウを取得するため、自ら使節団を作り、お忍びの立場で、ひとりの大工としてオランダとイギリスの造船所を訪ね、そこで見習いとして造船技術の全てを学びます。






つまりピョートルは最新技術、戦争などの場面では常にHands-onの知識を自ら率先して体得する主義であり、誰よりも屈強な船大工、誰よりも腕のいい歯医者を自負していました。




サンクト・ペテルブルク


ピョートル1世が支配する前はスウェーデン領で要塞が置かれていた。

1703年、ピョートル1世がこの地を奪取しペトロパブロフスク要塞と都市を建設。1712年、皇帝が家族でモスクワから引っ越し帝政ロシアの首都となった。


http://markethack.net/archives/51895891.html













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