《東電の天皇》の責任と、《本家の天皇》の責任と。
<澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士>
《東電の天皇》と異名をとって業界に君臨し、原発を推進してきたのが勝俣恒久元会長。
福島第1原発事故の未曽有の規模の被害について、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたが一審無罪の判決を得た(9月19日)。
「被害者らが提起した民事訴訟では、東電の過失を認める判決が相次ぐ。一方、個人に刑罰を科す刑事裁判では、具体的な予見可能性や結果の回避可能性など、より厳格な立証が求められる。
判決は、個人の過失を問う刑事裁判のハードルの高さを改めて印象づけたとも言える(河北新報社説)」ことはそのとおりだが、何とも納得しがたい。
「政府の事故調査委員会は、事故の背景について政府や東電に『複合的な問題点があった』と指摘した。
国会事故調などは
『人災』と判断した。
今回の判決でそれがくつがえるわけではない(東京新聞社説)」こともそのとおりだが、何ともおさまりが悪い。
これだけの規模の大災害である。
原発とは管理をあやまれば壊滅的被害あるべき危険物であるとは、誰もが知っていること。
あの規模の津波の発生も、設備の浸水にともなう事故の発生も警告はされていた。
そして、その結果回避も可能ではあった。
しかし、判決は、さらに具体的なレベルでの予見可能性を要求しているようだがその判断に疑問なしとしない。
検察官役の指定代理人の下記コメントに賛同する。
「国の原子力行政をそんたくした判決だといわざるをえない。
原子力発電所というもし事故が起きれば取り返しがつかない施設を管理・運営している会社の最高経営者層の義務とはこの程度でいいのか。
原発には絶対的な安全性までは求められていないという今回の裁判所の判断はありえないと思う」
案の定、
この判決はすこぶる評判が悪い。
巷の声は、次のようなものだ。
「ふざけるな」「不当判決だ」「市民常識とかけ離れている」「被災として怒りと失望を感じる」
「ふるさとに帰りたいと思って亡くなった方がたくさんいることを考えれば、こんな判決は受け入れることができない」
「裁判官の常識と一般市民の常識が違う」「裁判所は福島の被害者に真摯に向き合ったのか」
「司法が死んでいることが証明された。世界中に恥ずかしい」
「あれくらいの事故を起こして無罪ということはない」「それだけの責任ある立場の方々です」「それが知らなかったでは済まされないと思う」
「とうてい理解できない判決だ。被災者の思いを東京電力も裁判所も受け止めてくれない結果」
「誰も責任を取らないなんて納得いかねえよ」
「事故を繰り返さないため、トップの責任をはっきりして欲しかった」
「本当に残念でなりません」…。「これだけのことをしでかして、トップが責任を取らなくていいのか」という声が日本中に渦巻いている。
その市民感情は健全で、当然のことと思う。
私が注目したのは、「誰も責任を取らない日本社会の文化が続いてしまう」という、市民のコメント。
当然に
天皇(裕仁)の戦争責任を念頭に置いての一言。
《東電の天皇》ならぬ《本家本元の天皇(裕仁)》の戦争責任も、同様のトップの責任。
「あれだけのことをしでかして、トップが責任を取らなくていいのか」という声が日本中に渦巻いてよいのに、そうはならなかった。
これが不思議。戦後最大のミステリー。おそらく、天皇本人も戸惑っていたに違いない。
次のような声が飛びかってもよかったのだ。
「天皇無責とは到底考えられない」
「戦争被災者として怒りと失望を感じる」
「望郷の念にかられながら果たせず、外地で亡くなった方がたくさんいることを考えれば、
天皇無責は受け入れることができない</strong>」
「天皇は、国内外の戦没者に真摯に向き合ったのか」
「天皇無責は、日本社会の秩序が崩壊していることの証明だ。世界中に恥ずかしい」
「あれだけの戦禍を引き起こして無責ということはない」
「それだけの責任ある立場の方です」「それが知らなかったでは済まされないと思う」
「天皇の免責は、とうてい理解できない。戦没者の思いを受け止めてくれない結果」
「天皇が責任を取らないなんて納得いかねえよ」
「戦争の惨禍を繰り返させないために、天皇の責任をはっきりして欲しかった」
「本当に残念でなりません」…。
原発の責任と戦争の責任。
企業トップの責任と天皇の責任は、実によく似ている。
《東電の天皇》を免責したのは裁判所。《本家の天皇》を免責したのはマッカーサーだ。
せめて、《東電の天皇》の責任については、健全な世論の追及が続けられることを期待したい。
(2019年9月20日)初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.9.20より許可を得て転載 〈記事出典コード〉サイトちきゅう座
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