タカちゃんの絵日記

何気ない日々の感動を、スケッチと好きな音楽と、そして野鳥写真を。。。

※松江城山稲荷・・・ホーランエンヤ※

2020-07-09 | その他

松江城山稲荷神社

 

神社創建時の逸話

1638年(寛永15年)、家康の孫・松平直政が松江に来た時、枕元に一人の美しい少年が現れたという。  その少年は「私はあなたを全ての災厄からお守りする 稲荷真左衛門 です。  城内に私の住む場所をお作りくださるなら、城内の建物はもちろん、江戸のお屋敷まで火事からお守り致しましょう」と告げて消えた。  そこで直政は城内に稲荷神社を建てたと言われている。  そのことからこの神社の「神札」は「火難除け」として、町中のどの家にも貼られていたようである。 

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もこの神札が「松江の唯一の防火設備」と話をしている。  言わば一枚の紙きれが魔除けになるとする、そんな日本人の信仰心は八雲にとって衝撃的に映った様である。  きっと枕元の謎の美少年が、今も、約束どおり松江城・松江の町を守っているに違いない。

千匹もの石の狐が社を囲むように鎮座している。  石狐は風化して苔むし、崩壊しているものもある。  かっては2000体以上有ったらしい。  

小泉八雲は、城山内の散策が好きで(私と一緒(笑))、稲荷神社にも毎日のように通い、「お気に入りの石狐」があったと言われる。  松江の情緒をこよなく愛した八雲には、稲荷神社はとても神秘的な場所であった様だ。   八雲は愛妻セツ(士族の二女)やいろいろな人から怪談や昔話を聞いて、それを自分の六感で感じ取って、『知られぬ松江の面影』等に、著している。   ここ稲荷神社は、八雲の感性に合った場所の一つであり、もしかしたら・・・こうして人知れず、狐と毎日対話をする中から、インスピレーションを感じ取っていたのかもしれない。

 

 

ホーランエンヤと城山稲荷神社

松江の城山稲荷神社(御城内稲荷)で10年毎に行われる式年行事です。同神社のご神霊を船渡御によって松江市東出雲町の阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)にお運びし、7日間の祈願ののち、城山稲荷神社にお還りになる船神事です。
初日の渡御祭は、神輿船を囲んで約100隻の船行列が壮観です。ホーランエンヤというのは、櫂伝馬船が櫂を漕ぐ時の掛け声から名づけられたとも、また「豊来栄弥」から生じたことばとも言われています。

城山稲荷神社は松平直政が寛永15年(1638)松江に入国した翌年、藩内の平穏を祈って稲荷神社を創建し、後に築城時からあった若宮八幡宮を合祀し、現在にいたっています。祭りは直政公が入府してから10年目の慶安元年(1648)の凶作により、五穀豊穣を祈って御神霊を船渡御によって阿太加夜神社に移したことに始まります。

櫂伝馬船が、曳船を努めるようになったのは、文化5年(1808(直政の入府から170年後・第八代斎恒))の御神幸の折、大橋川から中海にでる馬潟沖で風雨が激しくなり神輿船が危険になったのを馬潟の漁師が助けにでて阿太加夜神社まで無事にお送りしたことに始まります。
船行列は、城山稲荷神社から堀川を通り、大橋川へ出たが、現在は、堀川の水深が浅いこと、堀川に掛かる橋の架け替えや添架物により橋の通過が難しいこと、櫂伝馬船の大型化により狭隘区間の通過が危険であることから大橋川で御神輿をお待ちし、船行列を編成し阿太加夜神社に向かいます。

祭りの第1日目、御神霊が大橋川まで運ばれ、神輿船に移されます。船行列は、阿太加夜神社氏子船団を先頭に、清目船、櫂伝馬船、神器船、神輿船、神能船、両神社氏子船などが連なり、延々1キロに及ぶ大船団です。いずれも色とりどりののぼりや旗をひるがえし、「ホーランエンヤ」とはやしながら、賑やかに漕ぎ進みます。5隻の櫂伝馬船には、十数名の漕ぎ手、舳(へさき)に立つ剣櫂(けんがい)、艫(とも)では采を振ります。これは、代々口伝によって受け継がれてきたもので、馬潟、矢田、大井、福富、大海崎、の5地区の人たちが奉仕します。

行列は見物人の見守る中を、大橋川から中海へと進み、夕刻、阿太加夜神社へ着き、御神霊が安置されて、初日の行事を終えます。

翌日から7日間、阿太加夜神社で祭事が営まれ、中日には櫂伝馬船の乗り手も加わり、中日祭があります。
9日目は還御祭で初日と逆のコースで大橋川をさかのぼり、御神霊は城山稲荷神社にお帰りになられます。

先人積み重ねてきた文化、大衆の信仰によって支えられ、370年余りも伝承されたホーランエンヤは、厳島の管弦祭、大阪の天満天神祭とともに日本の三大船神事の一つに数えられる国内最大級の船神事で、最近では令和元年(2019)5月に開催されました。
2012年に松江城の近くにホーランエンヤ伝承館も開館しました。


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