リッキー・マーティン:マリア
歎異抄をひらく
以前、斜め読みしただけに終わっていた「歎異抄」。 ただ、この歳だからこそ、じっくり読みな直して、もまた違った解釈もないのだろうか。 と思い立ちひらいて見た。 因みに、我が家は浄土真宗の信徒であります。 信徒と言っても、毎年お墓参りには行くものの、信仰心は余りにも薄かったのではと、反省しきりです。
さて、原文を写文(本気で読むために・・・)しつつ、読み進めて参りたいと思います。 ※なお「信教の自由」がありますので、関心なき人はスルーして下さいませ。※
※善人でさえ、浄土へ生まれることが出来るのだから、ましてや悪人は、なおさら往生できる。※ これは「歎異抄」第三章の一節であるが、三大古文(方丈記・歎異抄・徒然草)の一つ「歎異抄」中でも、信徒にとって最も知られる一文ではないでしょうか。 取り分け「善人なおもって」・・・の部分が、うわべだけを見るならば、「悪」を勧められている様にも映るところが、問題。
序 文
ところで、この書が、世に知られる様になってから、まだ百年足らずと言う。 それは500年前、蓮如上人が、「親鸞聖人を誤解させる恐れがある。」と、「仏縁が浅い人には、披見させてはならぬ。」と、封印され為であろうと、言われている。(「歎異抄」は、本来門外不出の書であり、場合によっては、自他ともに傷付ける、両刃の剣の様な書であるのだ。~明治末期から、ある機縁で読み始められたそうである。)
意 約
密かに愚かな思いを廻らし、親鸞聖人が説かれる真実信心と違う事が、説かれるのは嘆かわしい限りである。 ・・・・・そこで、聖人の仰った、忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記して置きたい。 これは、志を同じくする、学徒の不審を晴らしたいからに外ならない。
※「歎異抄」は、諸説あるが聖人の高弟・唯円によって書かれたと云うのが、今は定説となっている。※
要するところ、歎異抄はいかに誤解され易く、これを正したいと、言う事では無かろうか。
つづく
♪サラ・ブライトマン:アベ マリア♪