つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

長谷川一夫の墓

2009年08月15日 | 日記
               二枚目俳優と称された長谷川一夫の墓(谷中墓地)

谷中墓地の中央には、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなった谷中の五重塔跡が残っている。

その反対側に映画で活躍した二枚目俳優の長谷川一夫の墓がある。
何時行ってもこの墓所には花が飾られている。

長谷川一夫は、京都伏見の芝居小屋の子として生まれる。
1927年 松竹に入社。芸名を林長二郎と改め『稚児の剣法』で映画デビューする。抜群の美貌と若手時代劇スターを渇望していた松竹の社をあげての宣伝とが奏功し、たちまち、日本を代表するスターになる。
特に、自ら女形出身の衣笠貞之助監督に重用され、特に『雪之丞変化』の演技は、全国民を魅了した。
多数の映画に出演。二枚目の風貌で圧倒的な人気を得た。

1937年に東宝に移る約束をすると松竹が雇った暴力団員に顔を切りつけられ、再起不能といわれたが、芸名を本名の「長谷川一夫」に戻し、山本嘉次郎監督の『藤十郎の恋』で入江たか子と共演し、見事に復活する。
『鶴八鶴次郎』など山田五十鈴との「黄金コンビ」でもヒットを飛ばす。
その後、李香蘭と共演した『白蘭の歌』『支那の夜』など現代劇にも主演しヒットを続けた。

戦後は東宝、新東宝を経て1950年、大映に重役として迎えられ、衣笠貞之助監督の『地獄門』でカンヌ国際映画祭グランプリを受け、海外でも評価を高めた。
1963年に映画界を引退するまで大映のトップスターであり続けた。
時代劇では銭形平次などが当たり役だった。
主演映画が301本と、他に類を見ない本数である。

一方、1955年からは、東宝歌舞伎の舞台に立ち、華やかな「歌舞伎レビュー」で魅了した。
最晩年には、宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』の演技指導も手がけた。
テレビにも高額のギャラで迎えられ、1964年には大河ドラマ『赤穂浪士』の大石内蔵助役などの当たり役を得た。

酒が体質的に飲めず、大の甘党であったこともあってか、晩年は糖尿病などの持病に悩まされ、1984年、2月に繁夫人との死別後、後を追うように同年4月6日逝去。享年76。
没後、国民栄誉賞を受賞。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする