つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

浅草六区

2008年09月12日 | 歴史
                     浅草六区の賑わい

歴史
1873年(明治6年)の太政官布告により、浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、1884年(明治17年)一区から七区までに区画された。
この時浅草寺裏の通称・浅草田圃の一部を掘って池を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成。
これが第六区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し、歓楽街を形成した。

その後、1887年(明治20年)の根岸興行部の常盤座に始まり演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来て隆盛を誇り、江川の玉乗り、浅草オペラ、安来節等が注目を浴びた。
突き当たりに位置した凌雲閣は通称「十二階」と呼ばれた高層ビルで、その展望台は浅草はおろか東京でも有数の観光名所となったが、関東大震災で崩壊した。

昭和期に入っても「アチャラカ」と呼ばれた荒唐無稽の喜劇が好評を博し、戦後も軽演劇、女剣劇、ストリップおよびその幕間に演じられたコントが注目を浴び、芸能の殿堂・一大拠点として、ここからスターとなった芸能人も数多かった。

1959年浅草寺五重塔再建のためにランドマークであった通称「瓢箪池」が埋め立てられ、跡地に楽天地の遊園地と東急グループの複合娯楽施設「新世界」が立つ。
また、奥山から新世界までの間が西参道商店街として整備される。

しかし1960年代に入り、テレビ時代を迎え東京オリンピック以降、新宿、渋谷、六本木など城南方面に若者の文化が芽生え、浅草公園六区は急激な地盤沈下を迎える。
映画館・劇場は悉く閉鎖され、新世界の跡には場外馬券売場 (WINS) が移転して、以降平日は通行人がまばらで週末は競馬目当ての労務者が集中する光景が多くなった。
夜間は7時になると人通りも疎らになり、不夜城と詠われた嘗ての殷賑振りとは隔世の感がある。

こうした六区地区の斜陽に歯止めを掛けるべく、地元の「おかみさん会」等の下支え等により次第に復調の兆しを見せ、今日に至っている。

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