株式会社 文化財保存活用研究所 Blog

大分県を中心に文化財の保存修復をメイン事業として活動している「株式会社 文化財保存活用研究所」の企業ブログです。

文化を護る 未来へ繋ぐ 株式会社 文化財保存活用研究所

≪本社≫ 〒870-0164 大分県大分市明野西1丁目26-4 パレストステージ明野弐番館405号室 ≪工房≫ 〒870-1163 大分県大分市廻栖野549-18 TEL:097-556-7337 FAX:097-594-0073                         E-mail:hozon-katsuyou@kdr.biglobe.ne.jp                        

文殊仙寺~国東市国東町~ その2

2010-09-11 11:37:13 | 日記
こんにちは。うめです。
9月に入っても昼間の暑さは相変わらずですが、
夕方や夜はだんだんと涼しくなってきたような気がしますね。
気温差が大きいと体調を崩しやすいので、
健康に気をつけて、9月もがんばりましょう。


先日は馬頭君が国東市にある文殊仙寺を紹介しました。
今までは大分市内ばかりだったのですが、
これからは大分県内の様々な市町村のものも
ご紹介していけたらと思います。

ということで、今回は先日馬頭君が紹介してくれた
文殊仙寺の第2弾ということで文殊仙寺の伝説など
についてご紹介したいと思います。


文殊仙寺のある国東半島は「仁聞」にゆかりのある地ですが、
この文殊仙寺には「役の行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)」
の開基伝説があります。

小角が国東半島で修業をしていた時、
この地が霊地であるということを感じていました。
その後小角はインドを経て、中国の五台山に登り、
文殊を拝したといわれています。
その際、文殊菩薩が小角に対し、
「日本に渡りたい。日本にこの山に似た地は無いか?」と訪ね、
それに対し小角は
「国東の霊鷲山はこの山にも劣らない」と答えたそうです。
「それなら先に行って私を待て」と文殊菩薩が言うので、
小角は空を飛んで国東に戻り、文殊を待っていました。
一夕、文殊菩薩がこの地に来られ、
寺を建てたのが文殊仙寺だというお話です。

このような開基伝説があるため、
文殊仙寺には小角の石像がありました。



「役の行者小角」や「仁聞」については
また後日ご紹介したいと思います。



さて、次は宝篋印塔にまつわる伝説をご紹介したいと思います。

馬頭君の紹介でも写真がありましたが、
この宝篋印塔、本当に大きいです。



この宝篋印塔の所に首の無い石像が置かれています。




この首の無い石像には宝篋印塔の建立に努めた
浄覚に関わる伝説が残っています。


浄覚はもとは関東の方に住んでいる
松崎林太郎という武士した。
茨城典膳の屋敷に住み込んでいましたが、
典膳の奥方と密通しておりました。
これを知った典膳に成敗されそうになりますが、
逆に典膳を殺し、奥方と逃走します。
この逃走中は数々の悪行を行い、
ついには奥方も殺してしまいます。

色々とあり、遂には国東の富来浦にまで逃げてきます。
ここで文殊仙寺の鐘の音を聞き心を打たれ、寺を訪れます。
ここで仏の慈悲にすがるため、出家し浄覚になります。
その後旅に出、お寺に戻ってきた時に宝篋印塔を建て始めます。

宝篋印塔があと少しで完成というところで
典膳の子供の鶴若丸が仇を討つために、やってきます。
なんやかんやありますが、最終的には共に協力し、宝篋印塔を完成させます。

塔の完成後、浄覚は思い残すことは無いと
自らの石像を彫り塔の横にすえ、翌日自らの首を鶴若丸にさしだしました。
鶴若丸が刀を振り落とした瞬間、落ちたのは石像の首だったそうです。


というのが、この首の無い石像にまつわる伝説です。
悪人が改心し仏道を歩みながら、過去の自分の過ちを償おうとするのですが、
過去の罪からは逃れることができない。
その時石仏が身代わりになるというお話でした。

仏教では因果応報、過去の行いは現在へ、現在の行いは未来へとつながっていく、
過去に罪を犯したのであれば、その罰は必ず現在に現れるが、
仏道を学ぶことで、その罪を軽くすることができる
ということを忠実に再現したお話だと思います。



この宝篋印塔のある場所はとても眺めがよく、
晴れた日には四国をみることができます。



今回は2部に分け、国東市の文殊仙寺を紹介いたしました。
今後も、様々な市町村の文化財やそれにまつわる伝説などを
紹介していけるように努力してまいりますので、
今後ともよろしくお願いします。

追伸:今回お世話になりました文殊仙寺の皆様、本当にありがとうございました。