ばばの日記

団塊世代 仲良し夫婦の暮らし
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母・妻・妹

2008年05月24日 17時23分26秒 | Weblog

5月24日(土)時々

梅雨入り宣言から2日。雨は降らない。でも湿度は77%。朝は80数%もあった。

今日は、ばば兄とのエピソードを書いておきたい。

兄は昭和13年生。現在元気でいれば70才だった。

しかし昭和63年、9月19日、くも膜下出血で49才の生涯を閉じた。

ばばとは年が10才も離れていたので遊んだりとかした記憶はないが、

ある日大鍋で豚の餌を炊いていた時に兄が「これ美味しいよ」と、火の中から何か取り出し

ばばの口に入れてくれたことがあった。信頼する兄がくれたのでばばは何の疑いもなく

ムシャムシャ食べた。肉のような物で香ばしくとても美味しかった。

飲み込んだ後に「美味しかった、これなあに?」と聞くと

「バッタ」だと兄は涼しい顔をして答えた。グゥエッ~~~~。

結構大きかったので、トノサマバッタだったのだろうと思うが、バッタって食べられるんだよね。

確か「イナゴの佃煮」って聞いたことあるもん。イカナゴじゃないよ、イナゴだよ。

兄との思い出と言えば必ずこのバッタを食べたことを思い出す。

 

兄は姉妹から言うのもおかしいが、本当に真面目人間だった。

高校進学の時も一旦は名瀬の高校に入学したが

翌年、鹿児島の高校の編入試験を受け鹿児島のT高校へ入った。

当時、先生方は「T高校は無理」と兄を引き止めようとしたらしいが兄は無事T高校へ入った。

兄は大学まで鹿児島で学び、高校の国語教諭として喜界高校へ赴任が決まった。

同じ年、ばばは高校入試で名瀬の高校受験を考えていた。

しかし、兄の赴任先が喜界高校になったことでばば両親は

「兄さんの炊事の世話をしながら喜界高校へ行きなさい」と勧めた。

ばば両親にしてみたらやはり末っ子のばばをひとり手放すよりは

兄と一緒の方が安心と考えたのだろう。

ばばも大きな反発をすることもなく喜界高校を受験した。

 

高校入学後は、学校では兄のことを「N先生」と呼ばねばならず、それが嫌でたまらなかった。

でも、友達がいない時などは、「兄さん」と気兼ねなく呼んでいたけど何となく面はゆかったなあ。

「先生の妹」と言うことで、先生方からも友達からも特別視されているようなのが嫌だった。

(ばばが思っていただけかもしれない)

 

兄からも直接国語や古典の授業を受けた。

兄は言った。「R子、兄さんの教科の試験ではトップにもなるな、

その代わりあまりに恥ずかしい点数もとるな」と。

ばばは数学とか地理・化学は大っ嫌い。

国語・古典・英語だけが唯一好きだった。

兄には言われたけれど、ばばが頑張ってトップの点数をとるならそれでいいじゃない、

反対に、もし平均点以下とろうと、ばばの実力なんだから仕方ないじゃないと

ばばは開き直っていつもテストを受けていた。

兄妹、同じ学校というのも辛いものだ。

 

ばばは高校生でありながら家では兄の食事の世話・弁当作り・洗濯と

妹でありながら母の役割もしていた。それが嫌だとか辛いと思ったことは一度もない。

月にいくらかの生活費を手渡され、それでやりくりしていた。

お金が無くなると徳之島の両親に手紙を書き

米や芋など送ってもらっていた。

今考えれば、なぜ、兄に言ってお金をもらわなかったのか不思議でたまらない。

 

兄はよく勉強していた。ばばが夜中など目を覚ますと

いつでも机に向かう兄の後ろ姿があった。ばばは思ったものだ。

「兄はいったい、いつ眠っているんだろう」と・・・・

この兄の姿は、ずっと変わらなかった。

ばばは自分がおおざっぱだった分、真面目な兄を尊敬もしていたし信頼もしていた。

兄が大好きだった。

 

真面目人間の兄の授業は、あまり冗談も言わず、いつも淡々と進んでいったが、

たまにおもしろいことを言って笑わせることがあった。

ばばは、自分が教員になった時、兄の良かった面は真似をしようと心がけたものだ。

良くも悪くも兄が先輩教師として手本を示したくれたと思っている。

 

ある日、古典の授業の中で兄がこんなことを言った。

「お母さんと、奥さんと、妹にご飯をよそってもらったら・・・・」と。

兄が言うには、お母さんは我が子に腹一杯食べさせようと詰め込んで山盛りにご飯を入れる。

お嫁さんは、自分の夫の腹具合はよく分かるので適量のご飯を入れる。

妹は少なめに入れると・・・・・・

えっ、なんで?しかも、お姉さんじゃなくて妹。

もしかして、ばばのお弁当の詰め方に不満でも?

 

その頃ばばも青春真っただ中。ばばは色気より食い気。

当時はやり始めた「かっぱえびせん」も大好物だった。丸々お月さんのような顔だったばば。

痩せていた兄。兄の同僚の先生方は、ばばの家に遊びに来ては

「おい、R子、お前は自分だけ美味しいの食べて、

お兄さんにはろくな物食べさせてないんじゃないか」とばばをからかった。

反撃もできず、タダ恥ずかしく小さくなって、兄に申し訳ないと本気で考えていたばば。

今なら、あの年齢の頃はよく食べるし成長期だし・・・と考えるのだが、

当時は考えつかなかった。

 

結婚して、初めて兄が話した「母・妻・妹」のご飯のよそいかたの話を理解できるようになった。

母親の子を思う気持ちは一番強いもの。母の無償の愛・・・

ばば母もそうだったが、じじ母は子どもが60才になった今でも

やっぱり一番美味しい物はじじにあげようとする。

おかずなどのお裾分けも山盛り、食べきれないくらい入れる。

 

ばばは、どうだろう?

上京するじじに朝早くから18穀米入りご飯を炊き、全部おむすびにし、

保存食の豚味噌を作り、刺身のツマまで準備して

家にあるだけの野菜も生で、または調理してじじのバッグに詰め込めるだけ詰め込む。

こんな重いのを東京の道から引っ張って歩かせるぐらいなら

向こうで買わせた方がよっぽどいいのに・・・

じじが低血糖にならないようにと、おやつも、喉が渇いちゃ可愛そうと飲み物も。

 

ばばは、兄の話がよっぽど頭に残っているらしい。

じじを気遣い可愛がるじじ母と張り合うつもりなんて全然無いんだけど、

ここ数年、ばばは「じじの妻」を通り越して

「じじの母」になりかけているのではと自分でも可笑しくなる。