吉野山、金峯山寺の少し向こうに吉水神社がある。
最古の書院造り建物として世界遺産登録されている。
吉水院(きっすいいん)という1300年前に役行者が創立した修験宗の僧坊であったが、
明治維新の廃仏毀釈で後醍醐天皇を祭神とする神社となった。
ここは兄頼朝の追手から逃れた源義経と静御前が隠れ住んだところで、
右手の弁慶思案の間で武蔵坊弁慶が警護していたようだ。
後醍醐天皇は足利尊氏により幽閉されていた花山院から密かに吉野に行幸して、
ここ吉水院を南朝の皇居と定めた。
この玉座の部屋は上段の間五畳と下段十畳で、桃山期に模様替えされた書院だ。
障壁画は狩野永徳の作品で、左手にちょっと見える屏風は狩野山雪の作品だそうだ。。
書院内にはゆかりの展示物がいろいろあった。
これは武蔵坊弁慶の七つ道具の一つ武装槍。刺股も入っている。
七つ道具は諸説があるらしい。
ほかに義経の鎧(腹巻)もあった。
後醍醐天皇ゆかりの茶器。
一休宗純和尚の墨書も2点。
一休と言えば大徳寺や京田辺の一休寺だが、どのような経緯で吉水神社にあるのだろう。
庭には秀吉花見の本陣という碑があった。
有名な醍醐の花見に遡る4年前(文禄3年、1594)に吉野山で花見の宴を開催していたようで、
徳川家康、前田利家ら武将に茶人や連歌師など総勢五千人を引き連れて訪れたという。
書院内には、その時に使用された豪華な金屏風も展示されていた。
北闕門(ほっけつもん)は修験者たちが大峰山に入るにあたり祈りをした聖地で、
後醍醐天皇も毎日、ここで京都の空を仰ぎながら九字を切り祈っていたそうだ。
左手奥に見えるのは金峯山寺。
ともすれば物語の世界の人々のように感じていた歴史上の人々が
ぐっと現実味を帯び生き生きと息づいてくるような気持ちを味わいました。
吉野では秀吉の花見の宴も開かれたのですね。
その頃も今と同じような美しさだったのかしら。
後醍醐天皇も義経も少し気が晴れない日々をここで過したに違いありません。
対して秀吉は栄華を誇示するかのような大きな花見の宴を開いて上気分だったでしょうね。
年月を重ねた今の方が桜の木は増えているかも知れませんが、
その美しさは当時も変わらず素晴らしかったのでしょう。