烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

時間がかかる本

2006-10-15 23:20:21 | 独り言
 『新デカルト的省察』をぼちぼち読む。ローギアで登山道を登るような読書である。秋の夜長にはもってこいか? 改めてデカルトの哲学がそれ以後の哲学の源泉であることが分かるような気がする。齧り読みで「現前の形而上学」などといって簡単に否定されてしまうものではない。他人の頭が出した否定の結論をそのまま鵜呑みにすることほど馬鹿なことはないだろう。
 他の本も間に入れながら読んでいくことにする。

第四省察

2006-10-15 22:48:20 | 本:哲学

それでは私の誤謬はどこから生じるのであろうか? すなわちそれは、意志は知性よりも広範囲に広がるので、私が意志を知性と同じ範囲に限らないで、私が理解していないものまでに押し及ぼすという、ただ一つのことからである。

(デカルト『省察』、山田弘明訳、ちくま学芸文庫)

「何をするのか」と問われたときの「何」は知性によって与えられる。その「何」が知られていなければ答えられない。「するのか、しないのか」と問われるならば、「する」か「しない」という答えしかない。意志の働き、すなわちしようとすること、選び決めること、することしないこと、には内容がない。内容は知性によって与えられる。意志の働きをそれだけとして取り出すならば、そこには内容が見出されない。行使されるだけである。だから、範囲が限定されることもない。

(村上勝三『新デカルト的省察』、知泉書館)

 明晰に知ることだけに限定して自らの意志を用いるならば誤ることはないだろう。しかし意志は自らの及ぶ範囲を越境する。そしてしばしば私たちは知らないことについて決断しなければならい。このとき「ある」ものが「ない」ことになったり、「ない」ものが「ある」ようになったりする。単に知らないということは、誤りや偽りではない。だから意志を誤って使用して誤った結果を招いてしまったときに、私たちはしばしば「知らなかった」という言い訳をする。知らないことはしばしば免罪符になる。しかし軽率にも意志が誤りを犯してしまったことには変わりはない。だから「知らなかったでは済まされない」。
 では明晰になっていることを機械的に適用すれば誤りから免れるのか。結果として明らかに不都合が起きていても、「規則ですから」といえば免罪符になるのか。規則の適用は正義・公正さを保証するのか。規則は意志を肩代わりする。うまくいっているときは意志の暴走を止めてくれる。しかし規則だから「適用する」ことは、いつも正しいとは限らない。公正さがどこかで保証されているから規則が生きる。ではその公正さはどこから来るのか? この問いにはおそらく終わりがない。