『光ってみえるもの、あれは』(川上弘美著、中公文庫)を読む。
なんだか最近小難しい本ばかり読んでいると、左脳ばかり酷使しているようで脳のバランスが悪い感じがしていた。書店の文庫の新刊コーナーで本書を見つけ、早速購入した。川上さんの小説は、格別文章がうまいわけもでない(ごめんなさい)が、イメージの喚起力がやたらと強く読んでいると行間から絵が浮かび上がるような感じがしてくる。理学部生物学科出身のせいか動物(特には虫類や軟体動物)を用いた比喩は秀逸だと思う。右脳の活性化にはたいへんよろしい。
本書は、16歳の江戸翠という少年が主人公である。母子家庭というか祖母がいるので、三人家族を中心として、翠の父親である大島さん、翠の彼女の平山水絵、友人の花田、母親と付き合っている佐藤さん、学校のキタガー先生が主な登場人物である。物語は翠の日常を描きながら淡々と進んでいく。花田君の女装、途中祖母の家出、大島さんの五島列島行きなどが起こる。各章の見出しになっているのは、詩歌の一節で、小説の中に上手にはめ込まれており、そのイメージでそのときどきのエピソードが不思議な鮮明さで印象づけられる。この選択もおもしろいなと思うと同時に、これが詩歌の力、ことばの力なんだなあと感心してしまう。実際の日常ではこんなふうに詩歌の一節がうまい具合に出てくるようなことは(少なくとも私の日常では)ない。だからうらやましい。
たとえば
「女の子とつきあうの、大変じゃない?」しばらくしてから、佐藤さんが聞いた。
え? と僕は聞き返す。
「さまよく逃げる」佐藤さんはつぶやいた。
さまよく? 僕はまた聞き返す。
「少女子(おとめご)は魚の族(やから)か、とらへむとすれば、さまよく鰭ふりて逃ぐ」
ゆっくりと、佐藤さんは言った。
「なんですか、それ」
「明治時代につくられた歌だよ」
はあ。僕はあいまいに頷いた。佐藤さんと二人でいると、お互いに頷いてばかりだ。
「女の子は、つかまえようとすると、魚みたいにするっと逃げちゃう、っていうくらいの意味だな」
ははあ。
「明治の頃から、女の子って、今と同じだったんだろうかねえ」
というやりとりや
海にいるのは? 僕が聞き返すと、大島さんは大きく煙を吐きだした。そう。海にいるのは、あれは人魚ではないのです。海にいるのは、あれは浪ばかり。中也だよ。翠も中也くらい読まなきゃ女にもてないぞ。
その、女にもてるもてないで人間をはかるの、やめてくれない。僕は言い返した。大島さんはまた大きく煙を吐きだした。それから、ふん、と言って、うしろを向いた。
など、少年である翠と大人たちとの会話の中にさりげなく出てくる詩歌が実に自然でいいのである。