烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

イメージ、それでもなお

2006-10-02 20:34:50 | 本:哲学

 『イメージ、それでもなお』(ジョルジュ・ディディ=ユベルマン著、橋本一径訳、平凡社刊)を読む。本の冒頭は「地獄からもぎ取られた四枚のフィルムの切れ端」という題がつけられている。アウシュビッツ絶滅収容所から持ち出されたフィルムが語る四枚の写真のことで、これは同胞であるユダヤ人を大量死させる命を受けたゾンダーコマンドのメンバーが歯磨き粉のチューブに隠して「地獄から」持ち出されたものである。
 第一部「イメージ、すべてに抗して」は、著者が『収容所の記憶 ナチス強制・絶滅収容所の写真』に書いた文である。ここでは写真というイメージが「想像を絶する」現実を伝達することの可能性について論じられている。つづく第二部は、彼に対してなされた批判に対する反論である。ここで著者は幻想を映すヴェールとなるイメージから、「現実の閃光を噴出させるがままにさせる」裂け目となるイメージを区別する。イメージは不在のものを表象不可能であるがゆえに想像不可能であるとして「ショアーについてのイメージは存在しない」とするエリザベット・パニュとジェラール・ヴァイクマンのいうイメージは、偽りでありフェティッシュとしてのイメージであると反論する。イメージは無でもなくすべてでもない。この否定神学に対してユベルマンは、モンタージュとしてのイメージという概念を対置する。その複数の形態を結びつけるものが想像力である。だから「知るためには自分で想像しなければならない。
 第二部は、ユベルマンによるヴァイクマンに対する執拗な反論のリフレインで構成されており、矢を向けた相手が多少藁人形となっているような印象を受けることから、肝心なモンタージュと想像力の哲学が深化していかずなんとなく隔靴掻痒の感がなきにしもあらずである。モンタージュとしてのイメージを同一のものへと収斂・固定させることなく、それを託した人の希望をいかに救済するのか。
 「歴史家として振舞うことは、「実際に物事がどのように起きたのか」を知るという意味ではない。それは危機の瞬間に現れるような記憶を自分のものとすることである。史的唯物論にとって必要なことは、歴史的主体に対して危機の瞬間に思いがけずもたらされる過去のイメージを、つなぎとめることである」(ベンヤミン「歴史の概念について)