烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

リキッド・モダニティ

2006-10-28 18:55:56 | 本:社会

  『リキッド・モダニティ 液状化する社会』(ジークムント・バウマン著、森田典正訳、大月書店刊)を読む。ポストモダンにおける経済の国際化、多国籍化などのともない変化する社会構造を「液状化」と形容し、新たに出現した社会の病状に対するバウマンの診断書ともいうべき著書である。旧態の社会管理体制(フーコーのいうパノプティコン体制)から個人が解放されることで、中央の少数からの多数の監視はなくなった。その代わりに多数による少数の監視社会が出現する。解放と自由の代償が不安定性、不確実性というものだというのがバウマンの主張だ。
 獲得された自由によって個人の選択肢は限りなく増大したが、「選択しない」という自由は許されていない。自由な個人は自らのアイデンティティを確立することを当然のこととされ、「個人化ゲームに参加」させられる。責任はすべて個人に帰せられていくから、「病気にかかると、そもそも健康管理指導を守らなかったからだと逆に責められる。また、失業者が就職できないのは、さしづめ、技量の習得を怠ったか、仕事を真剣に探していないか、たんに、仕事がきらいだからだと勘ぐられる」ことになる。
 こうした状況で社会の中で自らを象徴化することができない個人は、公共の空間から「引きこもる」ことになるだろう。他者が出会う空間の公共性が衰退し、私的空間は一見保証されているかに見えるが、その内容は空疎である。かつて公的なものの私的空間への侵入が懸念されたのとは異なり、個人によって支えられるべき公共性が危うくなっている。アイデンティティを形成できない個が第一に頼るのが、「民族性」である。異物として排除された個が集まり、空間的に隔離されていく。

 差異を享受し、差異から利益を生む能力はもちろん、差異と共存する能力さえ、簡単には、また自然には獲得されない。差異と共存する能力は、すべての技量同様、獲得に手間と鍛錬を要する。一方人間の多様性、分類/整理からはみでた曖昧さにむきあう能力の欠如は、永遠に、自己増殖をつづける。つよい均一性への希求から、差異解消への有効な努力がなされると、見知らぬ者との共存は不安を助長する。かれらの差異はますます脅威と感じられ、差異が生み出す不安はますます激しくなるかのように思われるのだ。

 個人の象徴化を助けていた公共空間が衰退するとき、その穴を埋めるべきものとして安直な民族性の幻想が生まれる。このとき病んだ個人は、もうすでに手にしている自分に盲目となり、「どこかにあるはずの」自分を捜し求め、自分らしき断片を見つけては、これは本当の自分ではないという空疎なゲームを続けていくのである。