烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

モンテーニュ、人食い人種、洞窟

2006-10-09 11:24:35 | 本:歴史

 『歴史を逆なでに読む』の中の第6章のエッセイの題名である。原文は1993年に発表され、翌年には訳が『みすず』に掲載されている。簡単にまとめるとギンスブルグは、モンテーニュが異文化に対して開かれた態度をとっていたとして積極的に評価する見方に留保をつけ、あくまでも当時の歴史的コンテクストの中で彼の眼差しを浮かび上がらせようとする。その一つは、彼の精神を古遺物研究家のそれとして見ることである。自分の著作について「うまく接合されていない寄木細工」と表現する彼の自覚の中に、マニエリスムの時代の中に生きた彼を認める。それは『イタリア旅行記』でプラトリーノにあるメディチ家別荘の洞窟(グロッタ)に熱い眼差しを注いでいた他ならぬ彼の姿である(彼がイタリアに旅行に行ったのは1581年)。グロッタは技巧を尽くして模倣された自然であり、そこには統一を欠く多様性、非対称性がある。田園様式(style rustique)と名づけられたこの様式はやがてフランスへ伝達され、大きな影響を与えていくのだが、この建築様式とモンテーニュのエセーの構造には「対称性の拒絶」、「細部の膨張」といった共通性が認められるのである。
 ここに蒐集家としてのモンテーニュがいる。この背景にはルネサンスを経てそれまで閉じた完結した世界が破られ、見知らぬ世界が次々と出現した当時の状況が関係しているのだろう。世界の中に配置されているものには必然的に秩序と美が備わっているという認識が壊れてきたときに、蒐集は始まる。それは秩序を拒否する活動であり、異国のもの、新奇なもの、珍奇なものを同一平面上に並べる行為である。新たな知の改変作業が進行中の時代であったがゆえに、自分の視点を相対化することが可能であった。1605年にアリストテレスの方法論を批判したベーコンの『学問の進歩』が刊行されているのも象徴的である。モンテーニュの「野蛮」への眼差しもそうした「蒐集」家からの眼差しに起因している。蒐集家てき好奇心が他民族へと注がれた時、民俗誌が書かれる。その「野蛮」は、自分たちの習慣とは違うということ、残酷であること、そしてより自然に近いという三つの意味がこめられており、そこに認められる彼我の距離性が「モンテーニュの趣味に断固として訴えかけるものであった」とギンスブルグは述べる。ここに自民族中心的歪曲から逃れた最初の知識人を見ることこそが、実は自民族中心的視点であることを彼は鋭く指摘している。
 ある眼差しで対象を観察する時に、その眼差し自身に最も無自覚なのが眼差しているその本人であるということを教えてくれる。