烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

道徳の中心問題

2006-10-24 22:09:33 | 本:哲学

 『道徳の中心問題』(マイケル・スミス著、樫則章訳、ナカニシヤ出版刊)に取り掛かる。
 第2章は「表出主義者の挑戦」と題されている。表出主義者(道徳判断はそれをする人の承認や拒否といった態度を表出するとする立場)は、記述主義(道徳判断は事実を述べているとする立場)は成り立たないことを論証する形で、自説の正当性を主張する戦略を検討している。ここでは道徳的性質が、自然主義的な事態(自然科学の記述に還元される事実)を記述しているのか否。かが問題となる。表出主義者は道徳が非自然的主義的なものとすると検証不可能なものがあるので誤っていると主張する(これは道徳に限らず検証不可能であるが科学的に正しいと
受け容れられている意味のある記述があるから性急にすぎる)。問題は道徳が非自然主義的な知識であるとして、それがどのようにして獲得されるかである。非自然主義的な知識を直観的に獲得する(ある事態を見てとる)という可能性が考えられるが、道徳的知識は知覚的経験から因果的に獲得されなくても反省によって獲得されることからこの説明は危うい。まあ道徳は通常「どうして」という問いを許さず受け容れることを要求される性質のものだということを考えると、これを理路整然と説明することを要求される方が負担は大きい。その点表出主義者は悪く言えばその努力を放棄している。それはさておき非自然主義的方法がうまくいかないとすると、自然主義的方法はどうか。道徳をある自然主義的性質で「定義する」ことに問題ありと表出主義者は言うが、私たちは「定義」によらずとも対象を指示同定できるのだからその反論は当たらないと記述主義者は言う。では記述主義者はうまく道徳とは何であるか記述できるのか? 道徳の概念は自然主義的用語によって還元的なネットワーク型分析(p59)をおこなえるのでそれが可能だという主張は、置換問題(p65)のため躓いてしまうためうまくいかない。第二の選択肢として、ネットワーク分析は不可能であるが、道徳の概念は自然的特徴をもっているので、道徳判断はものごとのあり方を何らかの自然的な観点から記述しているという主張は、道徳に関する常識的な真理をとらえることができないため、これもうまくいかない。となると表出主義しかないのか? ここで著者は、道徳概念の分析が必ずしも明示的で還元的な分析をする必要はないと述べる。