烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

水の道具誌

2006-10-20 23:06:06 | 本:歴史

 『水の道具誌』(山口昌伴著、岩波新書)を読む。第一章は「水を楽しむ」と題され、如露や鹿おどしなどが紹介されている。如露の水がでる部分を蓮口ということを知ったが、さらにその蓮口に施す職人技で「孔から噴く水糸が隣同士喧嘩しないように」してあることも教えられた。水琴窟の項では、その音色がいい条件に周囲の地形が重要だということが書かれている。この小さな水の意匠にそれを取り巻くランドスケープが影響するという関係も意外だったが、それを聴き分ける文化があることにも感心した。いや、もうこの文化はもしかすると瀕死状態なのではないだろうか。身の回りで耳に入ってくる音を言えば、神経に突き刺さるような電子音ばかりである。これらの電子音をはじめとする機械の音は、常に同一のものであり、記号でしかない。電子音により私たちは何事かを知らされ、次の行動へ駆り立てられるばかりである。その音自体にはゆらぎはなく聞き入るべきものでもない。私たちの祖先は水や虫、風の音に聞き入り、本来意味のないところに意味を見出し、それを楽しんできたのだ。自然の音に聞き耳をたてたり、耳をそばだてたりすることがなくなれば、自然は疎遠なものとなるだろう。同時にそれは自分の内部のゆらぎにも耳を閉ざしてしまうことになるのではないか。
 このように書くとこうした伝統ある文化を失うことに対する懐古趣味のように聞こえるかもしれないが、私は時間の向きでいえば、反対のことを恐れている。利用されなくなったものが次第に姿を消していくことはある意味仕方のないことであるが、こうした文化を失ってしまうことは、私たちが将来そうした感性豊かな伝統を創造していく力を失っていくことを意味しているのではないかということを恐れているのである。
 話がずいぶん硬くなったが、この本の道具の話はたいへん楽しく読める。墨を磨るときに使う水滴の項には実にさまざまな形のあることが紹介されており、これはコレクションにはもってこいのオブジェだなあと思った。第三章の「水の性質を活かす」で登場する浮徳利の話では、温泉に浸かって酒を楽しむために著者が奮闘努力をした挙句、浮徳利と遭遇し古人もしたであろう自分の失敗と、それに挫けずに浮徳利を発明するに至ったことを慶賀する話は実にほほえましい。酒飲みというのは、ほんとうにどんなところでもどんな時にでも飲む努力(?)を怠らない生き物なのだ。