烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

古くて新しい省察

2006-10-12 23:56:28 | 本:哲学

 『省察』(ルネ・デカルト著、山田弘明訳、ちくま学芸文庫)を読みながら『新デカルト的省察』(村上勝三著、知泉書館刊)を読んでいる(あるいはその逆)。『省察』といえば哲学の古典中の古典であり、「私」と「神」について徹底的に考察する六日間の歩みの記録である。とにかくさまざまな後続の哲学のいい意味でもわるい意味でも踏み台にされた著作である。後者の著作は、有数のデカルト学者が平易な言葉で『省察』の思索を辿りなおしたものである。論語の注釈書を読みつつ論語を読んでいくようなそんな読書経験に近い。

では私は何によって存在しているのであろうか?すなわち、私によってか、両親によってか、あるいは神よりも完全でない他のあるものによってか。というのも私は、神よりも完全なものを、また神と同じほどに完全なものを、考えてもできなければ想像のできないからである。しかし、もし私によって存在するなら、私は疑うことも、願望することもなく、何かが私に欠けているということも、まったくなかったであろう。

とデカルトは私という存在について根本的な問いを投げかける。このあたりの思索を村上はこう述べる。

もし私が私を創りだしたのならば、私は疑うことも望むこともなかったであろう。本当のことを知りたいと思うこと、希望をもつことは、私に欠けているところがあるということを教えている。

 そもそも現代に生活する私たちにとって「神」と呼ばれるものを考察すること自体が困難なのだが、デカルトの素朴ながら根本的な懐疑を辿るとき、虚心坦懐に神を私を超える存在として読んでいくと、上の村上の記述が妙に腑に落ちる。ほとんど似たようなことを述べているのだが、この「腑の落ち方」が違うのが読み比べて面白いところだとつくづく感じる。古典の翻訳がいくつも出版されるのはこういうことなんだと思う。自分なりの「腑の落ち方」を探ること、これである。
 デカルトが考えていた神のレベルに私たちは本当に達しているんだろうか。デカルトからずいぶん遠く離れて歩いてきたつもりなのに、ふと前を見るとデカルトが立っている。そんな感じがする。
 「こうありてえって思うってこたぁ、てめえに足りないところがあるってことよ」
雑念ばかり多いところに、デカルト先生からポンと肩を叩かれたような気がした。まだようやく第三省察である。