烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

道徳の中心問題2

2006-10-27 22:13:20 | 本:哲学

 道徳的事実の存在は受け容れながら、それに何ら心を動かされないアモラリストにどう反論するか。あることが正しいと判断するにもかかわらず、そのことをするように動機づけられない者がアモラリストとされる。これに対してアモラリストは道徳的判断をしているのではなく、し損なっているとされる。
 このときに例として挙げられているのが、生まれつき盲目であるが、色の用語を使用するための信頼できる方法を持っている特殊な人である。その人は色に関して通常の人と同じように会話し、生活すると想定する。このときその人はほんとうに色の概念をもち、色の用語を習得しているといえるのかと問う。内在主義者は、この場合の色の使用、例えば赤や青という色は、いわば「」つきの色として用いられているにすぎず、ほんとうに色の概念を持っているのではないと主張する。同じようにアモラリストは道徳の用語を使うにもかかわらず、ほんとうに道徳的判断をしているのではない。内在主義者は道徳的判断と動機づけとの間に確実な結びつきを前提としているために、この特殊な盲人、アモラリストはそれぞれほんとうの判断をしていないと結論する。しかしほんとうにそうなのだろうか。社会の中でまったく齟齬なく道徳的判断について語る能力があれば、アモラリストは存在することが可能なのではないだろうか。道徳的判断とその動機付けの必然性をどこまで認めるか。ある道徳的判断にはある動機付けが伴うことは必然であるのか、ある道徳的判断には必然的にある動機付けが伴うのか。似ているようで違いがある。

 この手の議論はどうも読んでいると疲れる。楽しいはずの読書にどうしてこう眉間にしわを寄せないといけないのか。