烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

贅沢な読書

2006-10-21 23:38:41 | 本:文学

 『贅沢な読書』(福田和也著、ちくま文庫)を読む。一流の作品を読みながら、「書物を前にした時の構え方」を講ずる書評である。読書行為を敬いすぎて儀式化するのでもなく、さりとてただ無制約な野放図な読書に堕することもなく書物に対することがなによりの贅沢を味わうために必要であると筆者は説く。一定の「覚悟」をもって書物に対することが、それを書いた著者の精神と対峙することに通じるという主張なのであろう。そうして初めて悦楽に値する読書の楽しみが生まれる。確かにこうした経験は得がたいものである。この楽しみを得るためには、当然のことながら読む本を選ばねばならない。いわゆるこの本で挙げているような古典であれば、選択として誤る心配がない。でも古典ばっかり読むわけにはいかないからいろいろと悩むことは多い。私の経験からすると、自分が少し背伸びする必要のある本のほうが得られる満足感は大きい。著者は芸術作品を鑑賞することを例としてあげているけれど、まあ釣りでもゴルフでも少し難しいほうがやっていて楽しいのではないかしら(どちらもしないから想像でしかないのだけれど)。

 第一章はヘミングウェイの『移動祝祭日』が取り上げられる。著者は自分が悩んでいた頃に『移動祝祭日』を読んでいたことを振り返りつつ、ヘミングウェイの人生を辿る。そのとき「しなくちゃならぬことは、ただ、一つの本当の文章を書くことだ。お前の知っている一番本当の文章を書くんだ」というヘミングウェイの言葉に戸惑いながらも『移動祝祭日』から書く勇気を与えられたという。著者の思い入れの強い作品であるだけに引用部分のヘミングウェイの文章は光っている。こう言っては失礼だが、著者がヘミングウェイを絶賛することからよりも、彼の文章が著者の文章より数段優れていることが自ずと分かってしまうことから、この章を読むと俄然ヘミングウェイを読みたくなる。そういう意味でこの書評は成功している。まあそれだけヘミングウェイの文章は力強くかつ余計なところがない。

 第四章の日本の古典文学の章では、ラテン語、ギリシア語教育を中心とした教養というものがどういうものかを説きつつ、西洋の古典と日本の古典の違いを論じている。西洋ではラテン語、ギリシア語といった実用には役立たないものをどうして徹底的に叩き込むのか。それは人間性を涵養するためであると著者は答える。

つまり、まったく無縁な他者を理解しようとすること。
自分と隔絶した他者を理解しようと徹底的に努力をすることにこそ、人間の人間としての力、つまりは利害、欲望、本能を超えた人間性の力があると彼らは考えたのです。
 この、自分とまったく違う時代、文明のなかにいる他者を理解する能力を、当時のドイツ人は「教養」とよびました。

 この部分にはまったく著者の指摘どおりだと思う。以前「近代とホロコースト」のところでも触れたが、語学教育というものは基本的にはそうした他者理解が中心であるべきだと思う。自分と自分をとりまく者たちとはまったく違う思考回路で物事を考える人がいて、その他者と対話をする努力をしていくこと、そしてそれを通して理解する力を鍛錬していくことが教養をつけることだと私も思う。それは自分と同じ境域にいる人間が一度咀嚼して吐き出したものを取り込んで身につくようなものではなかろう。
 それはさておき、そう著者が定義する教養を育てるために日本の古典は不向きであるという。その理由として(1)古文であっても読めばそれなりに理解できてしまうものであること、(2)万葉集などを見れば分かるが古典文芸が一部の専門家に独占されることなく上は貴族下は平民まで広い階層で共有されていたこと、(3)古典のジャンルとしての境界が不明瞭で「けじめがない」こと、を挙げ上で述べたような他者理解のためには向かないと論じている。だから逆に

 日本の古典を読み、味わうこと、それはこの「けじめのなさ」から広がってゆく情感に身を委ね、上下左右の立場や身分のみならず、人と生き物、山河と風水の境目も、今と昔、今日と明日の敷居をも越えて、楽しさに哀しさに、寂しく、また浮かれ、とめどなく纏綿していく経験にほかなりません。

とまあ日本の古典の素晴らしさを強調している。こういう立場からすると、それぞれの語学学習で目指されるものがまったく違うわけだから小さい頃から英語だ、いやまず国語だという議論はそもそも論点がずれているといわざるをえない。