今はあまり見なくなったけれど、かつてはプロ野球が大好きで、テレビやラジオを通して観戦していたものでした。私は特に横浜ベイスターズ(大洋ホエールズ)が好きでしたが、いかんせん、テレビ中継がほとんどなく、試合の途中経過を知るには巨人戦を見るか、ラジオ中継、または河北新報社の自動アナウンスを聞くしかありませんでした。ところが、1998年、新しいものが好きな父のおかげで、我が家にもいよいよインターネットが導入され、試合の途中経過をネットで知ることができるようになりました。その年、横浜が日本一になったのです。
日本経済新聞のスポーツ欄に、98年当時に横浜ベイスターズの監督だった権藤博さんがコラム「悠々球論」を執筆しています。7月20日の記事では、98年の横浜は優勝したものの、層の薄さに苦悩したと回想しています。あのときの横浜は、高打率の打者がずらりと並び、ヒットでどんどん勢いよく点を取ることから「マシンガン打線」の異名を取りました。そのときはあまり思わなかったけれど、確かに野手は固定メンバーでしたし、投手も大勝ちするエースがいたというよりも野村選手、齋藤選手、三浦選手が12、13勝とバランスよく勝っていました。それと比べれば、現在のソフトバンクや広島は層の厚い印象があります。横浜の強さが継続的に続かなかったのは、そのあたりの「層」が理由のひとつとしてあげられるのかもしれませんね…。
ちなみに、98年は松坂大輔投手を擁する横浜高校が高校野球で優勝した年。野球は横浜で一色でしたね。思い返せば、私の人生のターニングポイントとなったのもこの年のことで、横浜ベイスターズや横浜高校の快進撃に勇気づけられたのを覚えています。懐かしい夏の思い出。ときどき1日だけでも、あのときに戻りたいなあと考えたりします(笑)
日本経済新聞のスポーツ欄に、98年当時に横浜ベイスターズの監督だった権藤博さんがコラム「悠々球論」を執筆しています。7月20日の記事では、98年の横浜は優勝したものの、層の薄さに苦悩したと回想しています。あのときの横浜は、高打率の打者がずらりと並び、ヒットでどんどん勢いよく点を取ることから「マシンガン打線」の異名を取りました。そのときはあまり思わなかったけれど、確かに野手は固定メンバーでしたし、投手も大勝ちするエースがいたというよりも野村選手、齋藤選手、三浦選手が12、13勝とバランスよく勝っていました。それと比べれば、現在のソフトバンクや広島は層の厚い印象があります。横浜の強さが継続的に続かなかったのは、そのあたりの「層」が理由のひとつとしてあげられるのかもしれませんね…。
ちなみに、98年は松坂大輔投手を擁する横浜高校が高校野球で優勝した年。野球は横浜で一色でしたね。思い返せば、私の人生のターニングポイントとなったのもこの年のことで、横浜ベイスターズや横浜高校の快進撃に勇気づけられたのを覚えています。懐かしい夏の思い出。ときどき1日だけでも、あのときに戻りたいなあと考えたりします(笑)