学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

カント「世界市民という視点からみた普遍史の理念」を読む 2

2007-07-20 21:22:53 | Weblog
昨日で展示替が終わりましたので、その間にたまった仕事をこなす一日。しかし、展示作業で燃え尽きたか、あまり仕事ははかどらず・・・。ホームページのデータ変更及び追加、物品の支払処理など、昨日とは打って変わって事務的な仕事ばかりでした。明日から新しい展覧会のスタートです。お客さまが沢山いらっしゃるといいのですけれど。私は明日のオープニングには立ち会えず、なぜならお休みだからです。明日の計画は、ネクタイを買ってくること!お気に入りの赤いネクタイが、かなり古くなってしまったため、もう買い換えなければならなくなりました。そんなわけで、明日は買い物へ行ってきます♪

さて、再びカントです。元来、物事に冷めやすい私が、今だカントについて記そうとしていることが奇跡に等しい(笑)

第五命題は、市民社会という<檻>について述べています。我々人間は、常に自由を求めています。けれど、全ての人が自由気ままに動き出したら、人間は発展が送れてしまいます。そこで市民社会の<檻>(法律などを指すものと思われます)を設けることで、ある程度自由に縛りをもたらすのです。そうすることで、人間という名の植物も、横へ伸びたりせずに、真っ直ぐ上へ向かって発展してゆくでしょうというお話。

第六命題は、支配者のパラドックス。市民社会には支配者が必要です。これは当たり前のことですよね。ではどんな人が適任なのか。カントは、次の3点を兼ね備えた人がふさわしいと述べています。
①体制の性格を正しい概念で把握すること。
②世界の様々な出来事を体験し、豊かな経験を養うこと。
③体制を受け入れる心構えができており、善き意志を備えていること。
こんな人が果たしているのでしょうか(笑)カント自身、これら3つの条件が整うのは、なかなか困難なことであると述べていますけれど・・・。

第七命題、国際的な連合の樹立と述べています。大勢の人間が集まり、公共体を形成したとします。つまり、公共体=国と考えるとわかりやすいです。さて、その公共体は、隣にも公共体があると、それらと仲良くなったり、なかには敵対する場合があります。敵対する公共体があると、お互い戦争の準備を進めます。それが平穏と治安を樹立するのです。はて、どうして?と思いますよね。流れを説明すると、次のようになります。お互い戦争を始めると、国が荒廃したり、政府が転覆したりして、国力が一気にダウンする→ここまで追い詰められて、人間は自分の愚かさを悟る→お互い、もう戦争はやめようじゃないかという話が出てくる→同盟などを結び、国際的な連合を樹立する。こんな流れになるようです。

第八命題、人類の歴史は、自然が計画したものであること。このあたりは、私の理解も怪しい・・・。例として、AとBが戦争を始めたとします。一見、この戦争で国力に影響してくるのは、AとBの両国間だけと思われがちですが、周りのCも大変な不利益をこうむります。なぜならCは、Aとの貿易によって栄えてきたのですが、Aが戦争状態になったため、戦争をしていないCなのに貿易が出来なくなり、巻き添えを受けているのです。そこでCはAとBに戦争をやめるように仲裁に入ります。この戦争にはなんら関係のないCの行動によって、両国間は仲直りする。これはつまり、世界市民状態を形成する一端であり、希望であるということらしいのです。
・・・さすがに私も疲れてきました(苦笑)次でラストです。

第九命題、哲学という視点で、歴史を振り返る。古今東西、支配者は絶えず交代を繰り返してきました。ギリシア→ローマ→諸民族と。このような人間の錯綜した歴史も、人間が発展するためのプロセスと考えれば、説明がつくのではないかとカントは述べています。いわゆる、どんな暴君も暗愚な支配者も、哲学的な視点からみれば、栄誉の目で観ることができるというわけです。彼らのような存在でも(失礼)、人間が発展するためには必要不可欠なわけですからね。

さて、長々とお付き合いを下さいまして、ありがとうございました。哲学を理解するのは、本当に難しいですね。文章の道を歩きだしたと思ったら、すぐに立ち止まって、考え込んでしまう。歩く、止まる、考える、その繰り返しで読みました。難解ではあるものの、おぼろげながら理解できるようになると、数学の問題を解いたかのような、すがすがしい気持ちになります。私はあえて、この「世界市民・・・」の全体的な感想は書きません。自分の理解が怪しくて書く勇気がないことが正直なところですが、文章の内容が、1日や2日読んだだけではまとめきれないものであるような気もするからです。明日もカント、といきたいところですが、しばらく哲学はお休みにしましょう。読むほうも疲れるでしょうし、なにより私も相当疲れます(笑)
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追悼、河合隼雄さん

2007-07-19 21:48:59 | Weblog
予定通り、本日で展示替作業は終了しました。今日はキャプションの取り付け、ガラスケースの移動、そしてライティング(照明の調整)を行いました。このなかで特に大変なのがライティング。照度計を片手に、こまめにチェックを入れていきます。ご存知の通り、光が強いと作品の色があせてしまうので、要注意なのです。大変でしたけれども、無事、明後日から開館できそうです。明日は、展示作業の間にたまってしまった仕事に取り掛かる予定です。

さて、本日、文化庁長官を務められた河合隼雄さんが亡くなられたとニュースで報じられました。河合さんと申せば、ユング心理学の第一人者。私はこれまで心理学を学んだことはありませんし、もちろん河合さんの著作を読んだこともありません。けれど、たった一度だけ、河合さんと同じ空間に居合わせたことがあります。

今から2年前の冬。東京のとある新聞社が企画した美術館シンポジウムに参加したときのことです。シンポジウムで開催の挨拶を述べられたのが当時、文化庁長官であった河合さんでした。そのとき、河合さんがおっしゃったことを、私の拙いメモで辿りながら御紹介していきましょう。

今、日本の美術館は大丈夫なのか?と問われれば、私は「イエス」と答えます。といいますのは、新聞社が芸術のシンポジウムを企画すること自体素晴らしいことなのに、これだけの参加者(200人近く参加者がいました)が集まって下さったのだから。それに世界を代表する美術館の館長も来て下さりました。
かつて美術館は、人を寄せ付けない雰囲気を持っていました。けれども、その雰囲気も大分変わりつつあるようです。最近出来ました「金沢21世紀美術館」は入りやすくて、作品と見る側の距離が大変近いので、大人から子供まで楽しく過ごせる空間を作り上げています。
美術は国民と密接な関係があるのです。ですから、学芸員は常に人々の立場で美術館のことを考えなくてはなりません。とかく学芸員は勉強をしすぎると、視野が狭くなることがあります。それではだめなのです。いかに人々を美術館に呼び込むかを考えるべきです。
例えば、「模写の推進」はいかがでしょう。子供たちに一点の絵を模写させるのです。面白いことに、同じ絵を模写したものなのに、子供たちの絵はそれぞれ違うものに仕上がるのです。その絵をもとにディスカッションするのも、また楽しいものでしょう。そのディスカッションを通して、本来の絵の良さがわかってくるかもしれません。
そして最後に・・・。入場者が多いからといって、その美術館の質が高いと考えてはいけません。質と量は、また別の問題です。それを忘れてはならないのです。

以上、最後のセリフは何か意味が深い感じがします。河合さんは、美術館の現在と課題について、ご自分の意見を述べられていました。「模写の推進」のアイディアは大変ユニークです。あまり長くなるので省いた部分もありましたが、河合さんはボランティアの重要性についてもおっしゃっておられました。2年前に壇上で挨拶をされたときは、たいへん元気でいらしたのに。とても淋しい気持ちです。
御冥福を心よりお祈り申し上げます。
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カント「世界市民という視点からみた普遍史の理念」を読む 1

2007-07-18 21:41:50 | Weblog
本日は展示替休館日のため、大忙し。私の担当ではありませんが、作品の撤去、新しい展示作品の配置決め、そして壁面に作品を取り付けるための金具を打つ。近頃はあまり運動もしませんので、とても疲れました。展示替のたびに、自分の体力のなさを痛感する次第です。体は疲れてはいるものの、大分展示ははかどりましたので、明日には終了する予定です。2日間で展示終了は今までで一番早いかも。

さて、そんな体力が無い状態で、しかも左手を皮膚の病気で苦しみながらも、またカントを読みました。けれども、さすがに仕事から帰ってから哲学を勉強するのは無理があるようで、あまり頭に入りませんでした。(勉強をするなら早起きして、ですね)ですから、読みかけですし、あまり納得した感でもありませんが、そこのところはどうぞ御容赦ください。

私も含め、人間はこうして当たり前のように生きているわけですが、私たちは果たして何に従って生きているのでしょうか。カントは、その答えとしていくつかの命題を述べています。

第一命題として、素質は目的にふさわしいかたちで発達する。つまり、意味のないものなど、この世には何も無いということ。例えば、私たちの心臓は血液を体中に送る役目を果たしますし、耳がついているのも、音を聞くためですよね。もしも、それらが何の役にも立たずに、ただ存在しているだけだとしたら、自然は偶然が支配していることになる、と言っています。

第二命題として、理性の利用は一個人ではなく、人類の次元においてだ!と述べています。(なんだかわけがわからないですね)カントは、人間が到達するべきところは、自然の領域をはるかに超える能力を得ることだと述べています。人間が自然を超えることが果たして可能なのかちょっと想像ができませんが・・・。それは良いとして、その能力を得るためには実験や練習、教育などが必要である。けれども、人間の寿命は短いから、一個人が自然を超える能力を身に付けることはできない。だから次の世代に託す。人類は、それを繰り返し、自然を超える能力の獲得を目指す、それこそが人類の目的だ!と言っているようです。

第三命題は、自然の配慮に就いて述べています。これは、簡単に言うと(カントには悪いですが)自然は人間が楽に生きられるようには配慮せず、楽がしたければ、自分の行動で勝ち取るように求めた、とのこと。働かざるもの食うべからず?違うか(笑)

第四命題は、人間の社会性と非社会性について述べています。人間は社会を形成したがる一方で、孤独を好むという矛盾を抱えているのだそうです。例えば、どの会社でも何でも組織から出たがる人は必ずといっていいほどいますよね。組織に反発する!これは組織から見ると厄介な人なんだけれど、でもカントによれば、実はそういう人が居ないと、会社(人間)は発展しないのだそうです。刺激の無い生活ばかり続けていると、発展しない!なるほど。

第五命題・・・といいたいところですが、みなさんも飽きたでしょうし、なにより私自身が既に疲労で力尽きそうなので、今日はここまでに・・・。また明日にでも御紹介できればと思います。

それではおやすみなさい。
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カント「啓蒙とは何か」を読む

2007-07-17 19:59:57 | Weblog
連休でしたので、何かしっかりした本を読みたいと思い、光文社古典文庫から出されたカントの著作を買ってきました。

正直に申し上げますと、私は哲学については全くの素人です。何度も勉強しようとは思いましたが、そのたびに挫折しました。一時期、人は何のために生きるのかを真剣に考えたときがありまして、ハイデガーやレヴィナスの著作を読みましたが、結局はわけがわからず、「人が生きるのはわけがわからないもの」なんだとの結論に達しました(笑)

それは冗談として、やはりカントも例に洩れず、難しい。
光文社古典文庫の翻訳はわかりやすくて定評があるらしいのですが、それでもわからない。やはり自分は哲学には向いていないのかと思いましたが、薄い本に挫折するのもなんだか情けないので、大学以来?のノートを引っ張り出してきて、メモを取りながら読み進めると、ある程度はわかりました。でも、まだ本当にある程度しかわからないので、「啓蒙とは何か」を他人に説明することができません。これから何度も読み返して、考えて、自分の知識になるように勉強をします。

一応、「啓蒙とは何か」、理解できた部分だけ概要を述べさせていただきます。
「啓蒙」とは、人間が自ら招いた未成年状態のことを指し、「未成年状態」とは、酒が飲めないとか、煙草が吸えないとかの20歳以下のことを指すのではなくて、他人の指示を仰がないと理性を発揮できないことを言う。
(さあすこしわけがわからなくなってきました:笑)
どうして人間が、この未成年状態を脱却できないかといえば、ようするに他人の指示を仰いで生きていたほうが楽だから。たとえば、御飯が食べたい→料理を作らなくてはならない→面倒くさい、買ってくればいい!→お店から弁当を買ってくる→買ってきたお弁当は他人が考えて作ったものである。このような流れになっているらしい(例はわかりやすくするため、私が考えました)

では、啓蒙から脱却するにはどうしたらいいか。
公的な自由を発揮すればいい!(わかりにくい表現ですよね・・・)つまり、個人(カントは学者といっていますが)が公衆に向けて、この出来事は適切なのかそうでないのかを語りかけることが大切だと。
(この辺は私も理解が怪しいです・・・)
例えば、上司から仕事を任せられたとして、この仕事についてやるべきなのか、やらなくてもいいのかは討論の余地は無い。上司の命令である以上、従わなくてはならない、組織のなかで動いているのですから。あくまで、会社など組織から抜けて出ている状態で議論をすべし、ということらしい。

そして最後、カントは啓蒙専守専制フリードリヒ大王をお褒めになります。
フリードリヒは、自分に服従する約束をする条件で、民衆に議論の自由を与えたといいます。結局、「啓蒙とは何か」は、フリードリヒの政治を肯定する論文ということなのでしょうか?

あまり学のない私ですから、解釈に間違いがありましたら、ごめんなさい。


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日本対ベトナム 雑感

2007-07-16 22:01:39 | Weblog
学芸員がサッカーの寸評を書くとは聞いたことがありませんが、
人があまりやらないことをやりたがるのが私の性分ですので、
そんな試みをやってみようと思います。

アジアカップ一次予選の第3戦目は、日本対ベトナムである。
両チームは、一次予選突破が約束されているわけでないから、
スリリングな展開になることは必定。

試合のホイッスルが鳴って、しばらくは日本のペース。
ボールをサイドにまわして、ベトナムの動向を伺う。
ところがひょんなことから、オウンゴールで失点。
なんだか少し頼りない。だが、このチームらしい失点では
あるのかもしれない。

さて、そのあと巻選手のゴールが決まって、すぐに同点とする。
「選手」とつけるのは、やけに丁寧だと思われるかもしれないが、
会ったこともなければ、話をしたことも無い人を呼び捨てにはできない。
私たちは簡単に人を呼び捨てにしすぎる傾向がある。
相手だって、きっと呼び捨てにされる筋合いはないと思うに違いない。

遠藤選手の見事なフリーキックが決まって、日本は勝ち越し。
このあたりからテレビの音を消して、観戦することにした。
本当ならば初めから音は消してみるべきであった。
というのは、実況や解説の意見に流されてしまって、自分の
考えが無くなってしまうからだ。
何も考えずにテレビを見るほど、脳を退化させるものはない。
それに私はJリーグ開幕からサッカーを観戦し続けている。
さすがに10年以上もサッカーを見ていれば、試合の流れがいいのか悪いのか、
どの選手の動きがいいのか悪いのか、ぐらいの判断はつく。
だんだん冷静に試合を観ることができるようになってきた。

前半の日本の動きは、良いとはいえなかった。
だが、あのオシム監督が何の対策も練らないとも思えなかった。
たぶん、あのボールを回して、一見ダラダラしている様子も
力をセーブしておく作戦なんだと思う。
アジアカップは長丁場である。
試合で常に全力を出し切ると、決勝まで力が持たないと判断したの
だろう。

後半の駒野選手、遠藤選手、中村俊選手のパス回しとゴールは
まさしく美であった。あれは美しい。
山奥、清流の流れる如し。
早いパスで相手が崩れてゆく様子を見るのは痛快である。
この後、巻選手のゴールで4点目。
これにて勝負あり。
日本は一次予選突破を決めたのであった。

後半は、日本が明らかに試合を支配していた。
ベトナムは前半同様にしきりにカウンターを狙ってきたが、
それも随分防いでいたし、それに相手のスタミナが切れてきたのか、
あまり驚異的なスピードもなくなっていた。
確かに前半のベトナムは異常なほどのペースアップだった。
だが、いくら高温多湿に慣れているとはいえ、あれが90分間
続けられるわけがない。
かくして、前半に力をセーブしていた日本は高温多湿に
体力を奪われながらも、うまくボールを回すことができたのである。


途中まで、書いてきて全然寸評でないことに気が付きました(笑)
ですから、タイトルを「雑感」に変えてみました。
意外にスポーツの内容を書くことは難しい。
スポーツライターには到底なれないな、と思ったのでした。
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肉じゃがを作る

2007-07-14 21:12:44 | Weblog

先日、実家へ帰ったときにジャガイモを大量に
もらってきました。
毎日少しずつ消費していますが、しばらく
ジャガイモ三昧の日々が続きそうです。

今夜はめずらしく肉じゃがを作ってみました。
見た目は美味しそう!な感じがしませんか(笑)

肝心の味は・・・まあまあ美味しかったですね!
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『吾輩は猫である』を読む

2007-07-13 20:44:17 | Weblog
近頃、また読書をするようになり、
『吾輩は猫である』を読んでいます。
いわずもがな、夏目漱石の著作ですね。
主人公、猫の周りに居る人間たちは
大変滑稽に描かれています。
猫の目線で見ると、人間はかくも
おかしく見えるのでしょうか?
猫の飼い主である教師苦沙弥先生、
あまのじゃくな美学者の迷亭さん、
怪しくておかしい寒月君、
彼らの会話はなんだかちくはぐで
面白いものです。

夏目漱石は、よく「文豪」と言われますが、
その言葉が、彼の性質を言い当てているといわれれば、
私は違うような気がします。
確かに東京帝国大学を出身で、英国に留学をし、
おなじみのあの右手で首をもたげている写真を見ると、
文豪の雰囲気は感ぜられる。
けれど、作品を読んでいく限り(むろん『吾輩・・・』に限らず)
決してそんな重圧感や威圧感は感じないし、
むしろ文章に親近感を抱かせてくれます。
「文豪」として固いイメージがある漱石ですが、
彼がもし生きていたら、自分が文豪といわれることに
なんと言ったでしょう。

「世間が勝手に言ってるだけで、当人は何も知らん。」

そんなことを言ったかもしれませんね(笑)
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梅雨の夜

2007-07-11 21:26:45 | Weblog
先程から、しとしとと雨が降っています。
ただ雨が降るだけなら良いのですが、
ひどい湿気を伴っています。
部屋の中を歩けばぺたぺたと音がするし、
体もじっとりとしています。

私は、自宅においては、
どんなに暑くともクーラーはかけない人です。
クーラーの代わりに団扇と風鈴を使います。
団扇の風は、冷風ではないし、
風鈴の音は、風を送るものではないのですが、
この2つがあれば、夏もいくらか涼しく感ぜられ、
要は気持ちの持ちよう次第なのかな、と思わせられます。

いよいよ先に団扇が登場です。
私が持って居るのは、熊本の団扇です。
少し細長いのが特徴で、ちょっとだけ優雅な気分に浸れます。

夏は暑い、しかし、暑いといっても涼しくなるわけでなし。
気持ちを涼しく持って、乗り切りましょう。

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東北産業博覧会の絵葉書(後編)

2007-07-10 22:10:44 | Weblog

さて、お待ちかねの昭和3年に開催された
東北産業博覧会の絵葉書です。
絵葉書には、手彩色が施されています。
どうでしょう?メルヘンチックな感じがしませんか?
日本、いえ仙台とは思えない雰囲気です。

この建物の運命がどうなってしまったのか、
私も知りたいところなので、調べてみようと思います。
仙台は空襲の被害を受けていますので、
この建物も焼失してしまったのか、
あるいはこれだけ派手な建物ですから、
太平洋戦争に突入する前に取り壊してしまったのか、
わかりません。

現在、この建物があったところは整地になっていたり、
高校の敷地になっています。
当時の面影を忍ぶものはありません。
ちょっと淋しい気がする、東北産業博覧会は
夏の花火と同じように、一瞬だけの輝きだったのかも
しれませんね。
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東北産業博覧会の絵葉書(前編)

2007-07-09 21:34:19 | Weblog
一日経過して、昨日の日記を読みかえしてみると、
何が腹立たしかったのか、随分恥ずかしい。
恥ずかしいから、消そうかとも思いましたが、
展示について思ったことは正直な気持ちであったから、
そのままにしておこうと思います。

さて、昨日の続きのようなかたちですが、
仙台市博物館で、仙台の七夕についての小企画展が
開かれていました。
仙台七夕のきっかけが実は昭和3年の東北産業博覧会であったとのこと。
当時の写真(絵はがき)を使って紹介されていましたが、
恥ずかしながら初めて聞いた博覧会の名前でした。
写真には戦前とは思えない、大変個性的な建物が写っています。
メルヘンの世界?としか思えないような会場入り口の門。
なんだかやけに気になる東北産業博覧会。
私は単純なので、この写真が欲しい!と思いました。

そうはいっても、まさか博物館に写真を譲って欲しいと
いうわけにもいかないですから、仙台の古書店へ行って、
古い絵はがきが探してまわりました。
おそらく地元の古書店になら、まだ当時の絵はがきが
残っているかもしれないという淡い期待を抱いて。

すると、なんとありました!!
自分のカンがあたって、とてもうれしい気持ちです(笑)
手彩色とモノクロでしたが、肝心の写真は
明日画像で載せることといたしましょう。
今日は報告までに。
(変に期待感を持たせる文章ですみません)


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