学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

夏目漱石「三四郎」を読む

2007-07-23 19:16:31 | Weblog
今日は休日です。戸外は、朝からどんより曇り空。梅雨の時期だからしょうがないとはいえ、あまり気分のいいものではありませんよね。そのうえ、少し霧雨も降っていました。部屋の中にいると、なんだか陰鬱になりそうだったので、駅ビルへ出かけました。土曜日曜はにぎやかなデパートも、平日となるといささか閑散。にぎやかなところが苦手な私は、デパートの気も知らずに、すこし気が楽。書店へ行ったり、ラーメンを食べたりして、のんびりと過ごすことができました。

さて、ここのところは随分読書三昧が続きます。今日は、夏目漱石「三四郎」です。本当は「草枕」を読みたかったのですが、お気に入りのブックカバーとともにどこかへ紛失したので、「草枕」をとばして「三四郎」です。こんな理由で読まれた「三四郎」が気の毒ですけれども。

「三四郎」の主人公小川三四郎は、大学入学のため熊本から上京してきます。異郷の地、東京で出会った人々との関わりが、多感な青年期である三四郎の心に大きく響いてきます。繰り広げられる学問と恋の世界。特に三四郎が思いを寄せる美禰子の口から洩れる「迷える子」(ストレイシープ)が、なんとも意味深な言葉で、三四郎だけでなく、読者をも戸惑わせます。そして、同時にこの美禰子という女性の心に探りを入れてみたくなる、ところが、探ってみたところが何だかまるでわからない。一青年の青春物語に終わらない、なんとも妙な味の深さが、この本にはあるようです。

このブログを読んでくださっている方は、おそらく私が「迷える子」の意味に就いてどう解釈するかを臨んでいることと思います。結論から申し上げると、どうにもよくわかりません。この言葉は、具合の悪くなった美禰子を三四郎が河原まで連れて行き、みんなが心配しているから帰りましょうと言った時に、彼女がつぶやいた言葉です。単純に考えると「私たちは、みんなからはぐれてしまった迷える子」だから、という解釈が出来ると思います。ただ、しかし、これは単純すぎるような気もします。あるいは、もっと大きな視点で持って混沌とした明治という時代をどう生きたらいいのかわからず、戸惑っているから「迷える子」としたのか、それとも、物語の最後に三四郎がなぜか「迷羊」(これもストレイシープ)と述べているので、キリスト教に関連した寓意なのか。様々な解釈が出来そうです。もしかすると、決まった答えはなくて、これら考えられる全てが答えなのかもしれません。卑怯ですが、そう濁しておきましょう。

私が最も好きな場面は、最後に近いところ。文章の休みの部分と申しますか。三四郎が風邪で寝込み、熱にうなされながらも与次郎と会話する場面です。しいて申せば、その数日後にお世話になっている野々宮さんの妹よし子が見舞いに訪れたときの場面も好きです。与次郎が意外に友達思いの人間であることがわかり、温かさを感じましたし、なによりその会話が、大変のんきで、三四郎を現実の世界へ一気に引き戻したようでもあります。そして、数日後に訪れたよし子との会話。もしかしたら、よし子は三四郎のことが好きなのでは、と気ままに解釈をしてみました。これらは何気ない場面ですけれども、私の興味を惹くものです。

「三四郎」は、もっと若い頃に読んでおくべきだったな、と思いました。今でも充分楽しめますが、よく言えば高校生、あるいは大学生で一読しておくべきでした。そうすると三四郎の心が、自分の心と存外うまくつながっていったのではないかと。名作は読んだ年齢ごとに感じ方が違うと申しますが、もし自分が学生時代に読んでいたらどんな感想を持ったのか、これもまた興味のあることです。
コメント
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