京都北山細野の神主

日々感じる事を想いのままに書き綴っています。神主として品位に欠ける表現が有るのはボケが始まったとお許しください

長らく(5月4日から)ブログを書くのを休んでいましたが再開させてもらいます。

2021年06月11日 | 信仰(宗教)

前書き(長らく休んだ言い訳?)

健康を害したからではなく、いたって元気です。武漢肺炎(今や旧型コロナウイルス)騒ぎの延長で何だか虚しくなりました。

以前からFBはやっていましたが発信はあまりせずにコメントを入れたり”良いね”を押したりするだけのものでした。

コロナ騒ぎで身内や友だちに会う機会が少なくなりましたのでFBで毎日発信してまだ元気に生きている(遊んでいる)のを確認してもらっています。

コロナ騒ぎが起こってから1年半になりますが日本の国は(世界もですが)進化が止まりましたね。特に政治の退化とマスゴミのゴミ化がヒドイ。

暴力革命による世界の共産主義化が失敗し、本来の世界のグローバル化による共産主義化が勢いを増してきました。

日本国民としてイカに老いぼれたと言えども黙っている訳には行かなくなってきたと判断して以前にも増してグニモツカナイ独断と偏見のブログを再開します。

「御用とお急ぎでない方」は時々見てやってください。未だ引退もできずに神主を続けていますがもう仙人の歳になってしまいました。(神通力はありませんが)

これからは「京都北山細野の神主」改め「京都北山の仙人」とでもタイトルを変えたいと思っていますが変え方がわからないので副タイトルで誤魔化します。

今でもこの辺り(京北町細野)の三社のお宮さんの宮司を引き受けていますのでカテゴリー「神主(信仰)」から再開します。

何べんも言いますが「神道は宗教ではありません」が私の基本姿勢です。これについてはオイオイ書いてゆきます。

まず最初に次の詩を読んで下さい。昔から私の好きだったものです。

>ニューヨーク市立大学のリハビリセンターの壁にある患者の書いた詩<から引用

>大きなことを成し遂げるために、力を与えて欲しいと、神に求めたのに、謙虚を学ぶようにと、弱さを授かった。

より偉大なことが出来るようにと、健康を求めたのに、より良いことが出来るようにと、病弱を与えられた。

幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。

世の人の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、得意にならないようにと、失敗を授かった。

人生を享楽しようとし、あらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと、生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた、神の意にそぐわぬ者であるにかかわらず。

心のなかで言い表せないものは、すべて叶えられた。私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。<引用終わり

宗教ではなく信仰に気付くのはこの詩ではないでしょうか?まず、じっくり、ジックリ、味わってください。

続きは次回のカテゴリー「神主(信仰)」に。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿