京都北山細野の神主

日々感じる事を想いのままに書き綴っています。神主として品位に欠ける表現が有るのはボケが始まったとお許しください

電車の窓から見える景色は・ 子作り、子育てには?

2015年02月28日 | 少子化対策は故郷つくりから

毎月この日は弟と一緒に大阪の鶴橋に家賃取りに行きます。

お昼には終わって何時もの桃谷の天ぷら屋で天ぷら定食(昨日の昼も天ぷら定食)を食べました。

(今日の天ぷら定食は1300円、昨日の京都岩倉のキラクの天ぷら定食は900円)美味しさは昨日の方が上です。ボリュームは今日の方がありますが多ければ良いと言うわけではありません。特に食い物の場合は。

その後、私は吹田市のメイシアターに芝居を見に来ている娘と孫娘に会うために向かいました。

梅田でアワテテ乗り換えたのが快速で新大阪の次の吹田を通り越して茨木駅へ、もう一度下りに乗り換えて吹田駅へ、探せどもメイシアターは見つからず。

通る人に尋ねたらJR吹田駅ではなくて阪急吹田駅だと教えられて歩き出しましたが道を間違えたり、吹田市役所の中に入り込んで方角が分からななったりしながら約1時間、やっとメイシアターを見つけて入るが娘たちは観劇中でロビーで1時間以上ウツラウツラ昼寝をしながら待って3時半過ぎ出て来た2人と中にあるレストランへ。

春休みに我が家に来る孫娘と日程の打ち合わせをして5時前からの観劇に行く2人と別れて家路に向かいました。

帰りは近くの阪急吹田駅から淡路に出て京都線に乗り換えて西京極で降りて車を置いている西大路八条に歩いて行きました。

今日の行程をたどるとJR西大路駅から東海道を梅田まで、同じくJRで桃谷まで、帰りは桃谷から吹田へ、吹田から淡路、阪急京都線で西京極へ、歩いて西大路八条へ。

歩数計は1万3千歩余でしたが電車の窓から見る景色と歩いた道すがらの光景はまさしく現在の都市の住宅事情がそのままに出ています。

今日本では700万戸の住宅が空き家だそうですが都市にはマンションが次々に建設されています。誰が住むのでしょう?

環状線から見える商店もシャッターが下りたままの店が目立ちます。桃谷の商店街もシャッターが下りて売り家、売り店舗の張り紙が目立ちます。

阪急京都線の沿線は昔は比較的ゆったりした広い家が多かったように思いましたが今は線路脇まで庭の無い同じ形のセマッ苦しい家ばかりが密集しています。

沿線の北側は山が広がる緑の風景が多かったように思いましたが今は山を家々が駆け上っています。(大雨で崩れ落ちるのはこのような地形に建った家なのですね)

何処を見ても「子供の遊ぶ場所」は見当たりません。子供は自然の中で遊ばすことが大切です。児童公園などは自然ではありません。

何時も言う、「家庭」とは「家」=住まい、と「庭」=自然、があって,初めて「家庭」なのです。

「庭』=自然、の無い「家」=住まいは「オリ」か「カゴ」です。「オリ」や「カゴ」でも子作り=繁殖は出来ますが「子供の自立=自分でエサをとる」は教えることが出来ません。

と言うことは、自然の無い所では「子育ては出来ない」と言うことです。その上、子作りも1~2人までです。3人以上は都会では無理なのです。

都会に人口が流入しては少子化は免れないのです。夫婦で2人までなら減少するのは当たり前なのです。

少子化対策は女を労働力と見ないことと、ふる里を失った都会生活者の故郷創成(田園生活のすすめ)しか日本の復活はありません。

日本野あそび協会のキャッチフレーズ「子供はあそびの中から生活の術(すべ)を学ぶ」を NPO法人 ごっこ屋本舗 の活動の中で実践して行きたいとも考えています。

 


手作りママレードや切り干し大根が届けられる

2015年02月27日 | 遠くの地方から

先日兼務社の氏子さんから神社に山林を寄付したいと言う申し出があり、対処の方法を聞きに神社管轄の京都府文教課へ出かけました。

昼前に出たので昼飯を野球仲間の岩倉のきらくで天ぷら定食をいただき、まだ1時まで時間があったので宝ケ池のアウトドアショップWild 1 によって店内くまなく見て来ました。

最近はアウトドアショップはモンベルショップぐらいしか見ていませんでしたので同じ種類ですが他のメーカーの品ばかりで新鮮みがありました。と言っても今流行の物はブランドが違うだけで同じような物ですがWild 1 は釣り道具などもあるので私にとっては新鮮味がありました。

今さら私が買うような物はありませんでした。大概の物はもう持っているか、持っていない物を買って新たに始めようとは思いません。

13時になったので京都府庁の文教課に行って相談しましたがここでは解決しないようなので帰りに司法書士さんにも電話で相談しましたが解決しませんでした。

結局税務署の問題で終わりそうです。みんな自分の事以外は他人事だと言うことです。

結局、神主と氏子さんたちとが相談して将来の神社の継続を想定した解決策を講じることにしました。

家に帰り着くと玄関先に登攀倶楽部の山仲間の根来君の奥さんから手作りのママレードと切り干し大根、地元(和歌山県紀の川市)のミカン、が届いていました。

早速、ママレードを味わってみました。市販のママレードには無い、ニガミの入った香りの高い何時もの味が口に広がりました。

この苦味の入ったママレードは市販の物には無いものです。私はいつもこの味にしびれるのです。

近い内に奈良の新しい福祉施設の米粉のパン工房「バード・ビレッジ」から送られてくる米粉パンにたっぷり付けていただきます。

考えただけでもワクワクします。(年を取っても食欲だけは旺盛です。恥ずかしながら)


久しぶりに檻に鹿が入る(雨の中の解体で疲れた)

2015年02月26日 | 狩猟

先週雪の愛宕山に登った後足腰がガタガタになるかと思っていたのに快調でアチコチ走り回っていましたがヤハリ3日目ぐらいからヤタラ身体が重く感じられてパソコンに向かってもブログを書く意欲がわきませんでした。

まして狩猟に出かけようなどとも思わず、檻のエサを補充したり、仕掛けをセットし直したりするぐらいでパソコンでニュースを見たり、ユーチューブを見たりして春からのNPO法人 ごっこ屋本舗の春からの展開を思いながら過ごしていました。

娘からは先日送った鹿肉15キロを皆で食ってしまったのでまた獲って欲しいと言って来ましたので昨日もエサの補充だけはしておきました。

今日も朝から雨が降って寒々した日になるなーと、嫌な予感がしていました。

犬の散歩も傘を差して行って来ましたが、何となく檻が気になったので軽トラで見回りに行きました。

こんな日に限って入っているのです。奥の畑に広い檻にした所に、前回2頭入っていた大きな場所に2歳ぐらいの食い時のメスが1頭入っていました。

檻の高さは2mぐらいですぐに撃たなくては天井が無いので飛び出す可能性があるので早速家に帰って鉄砲を持ち出して仕留めました。

檻に入っている獲物は何時もは1発で仕留めるのですが今日は檻が広くて走り回って3発も使ってしまいました。

(以前に5発も撃って、村の人に「何匹倒した?」などと皮肉られたことがあります)

泥だらけの獲物を荷台に積んで帰りましたがこんな雨の中で解体を手伝ってもらうのは大変なので一人で解体することにしました。

ホイストが故障して使えないので軽トラの荷台にコンパネを敷いて雨の中カッパを着て一人で解体しました。

ビニール袋に肉を小分けにして入れてダンボウル箱に入れて京都市内のクロネコヤマトから冷凍便で娘の所に8キロ余を送ってやりました。

明日の夜には着くようです。

もう今日はこの作業だけでヘトヘトで夕方はコタツに入ったままイビキをかいて寝ていたようです。(歳だから仕方が無いか?)


氏子さんから山林の寄付の申し出があった

2015年02月22日 | 信仰(宗教)

先日、兼務社の氏子総代さんから「年配の氏子さんから山林を神社に寄付したいとの申し出がありました」との電話がありました。

改めて今朝、総代さんと現地に行き図面も見ながらイキサツを聞きました。

京都北山の林業も先の見えない産業になってしまい、過疎化が進み後継者になる子供たちも都会に移住してしまうことが多くなりました。

そして、本人も高齢になり地元では医者に通うのも大変になり子供たちの居る市内に移住せざるを得ない事情が出ています。

当分、山林は売るにも買い手なく、使い途無い状態が続いて行くと見られます。

しかし、長い目で見た場合、こういう山林は地域で何とかしなくては、過疎地の将来、日本の将来にとって何とかプラスになる方法は無いか? を考えるチャンスでもあります。

ここに人々が住みつき、集落の守り神として創建されて以来、数百年、千年を越える神社も全国には沢山あります。

それらをここに住む人達が昔から信仰して守って来ました。このあたりを支配した豪族や大名も田畑や山林を寄進して地元の人達の心をつかむために努力して来ました。

多くあった社有地が何時からか個人の所有になって神社の境内地は少なくなるに任されました。

そのうえ、また山林や樹木の価値が下がってしまいました。そして、管理維持が出来なくなりつつある今は、また、社有林として地域の氏子さんたちに管理してもらうことが大切ではないかと思っています。

日本の木々や山林が価値を失ったのはここ20年~30年ほど前からです。

そのような世の中にした今の大人の世代は終わりますが次世代には森林や木々が価値を持つ時代にまたしてくれると思います。

それまで地方の山林が荒廃しないように最低限の維持管理が出来るようにその地の神社に寄進出来る体勢が出来れば良いと思います。

個人が宗教法人である地元の氏神さまに寄進出来る制度があるのか? 方法があるのか明後日京都府神社庁に相談に行って来ます。

過疎化する山間僻地に山林を手入れをする事が出来るのか?と言う問題もあります。(解決の方法もあります)

過疎地の山林を荒廃するに任せず、産業廃棄物の捨て場になることを防ぎ、外国人の買い占めに合うことを防ぐには管理出来ない山林を神社に寄進してもらうことも一つの方法だと思います。

そのためには何をしなければならないのかこれから勉強したいと思っています。

 

 

 


久しぶりに雪の愛宕山に登る

2015年02月21日 | 健康

弟からこの冬のうちに雪の愛宕山に登りたいと言われていました。

雪が降った後の晴天の日という絶好の登山日和はナカナカ難しく、京都市内から我が家の近くまで周山街道に残雪が無いという条件(弟が雪道走行に慣れていないので)、それに仕事のタイミングもあるので決まりませんでした。

昨夜天気予報や雪の状態を見たら、ちょうど良いのではないかと判断して電話したら「明日午前10時に愛宕道の入り口に行く」と返事がありました。

10時からと言う時間は雪山を歩き始めるには遅い時間ですが早朝では周山街道がまだ凍てついているので遅らせました。

10時半に滝ノ町のパーキングエレアに到着して車を置かせて、私の車で京北トンネルを出た所の京北町でただ一つのコンビニへ昼弁当のおむすびやお茶を買いに行って雪の愛宕道に乗り入れました。愛宕道は愛宕山の北の私の住まいの細野からウジウジ谷沿いに首無し地蔵へ出て愛宕神社の真下に出るルートです。

夏場なら3時間ほどのコースですが今日はシッカリ雪が積もっていました。入ってしばらく、歩きなら30分ほどの所で工事のために進入禁止と言う看板が出ていたので真面目に林道の脇に停めて歩き出しました。

北山杉の大木の生い茂る林道を渓流沿いに30センチほどの雪道をエッチラオッチラ歩きました。弟も私と同じ大学の山岳部出身ですから、まして私より6歳若いので弱音を吐くのはプライドが許せません。

1時間ほど歩いた時に4台のジムニーの集団が通過し上の方に登って行きました。車高を上げた車なので雪道が泥道を好んで走るサークルだと思っていました。

そして、そのすぐ後に1台のダイハツの軽トラが上がって行きました。

しばらく歩いているの先ほどの軽トラが腹の底に雪を食い込んで亀のようになってもがいていました。

4輪駆動車ですがこうなってはどうし様にもなりません。そのうえこの車にはスコップも滑り止めも何にも積んでいなかったのでみんなで持ち上げて行け出そうと思いましたが2人乗っていた内の一人は私たちが着く前に持ち上げようとしてギックリ腰になってしまって使い物にならず、3人で持ち上げましたがどうにもならず。

どうし様にもならないので私たちは歩き出しました。しばらく行ったら先ほどのジムニー集団がいたので、下で雪から出られず困っている人が居るので出来たら助けてやってとお願いしたら、早速行きますと言ってくれました。

11時に愛宕道に入って愛宕神社に着いたのが午後3時

石段も雪が着いて歩きにくい

愛宕神社下のこの石段がしんどいのです。今日は土曜日のせいか結構な人が登って来たようです。神職も社務所に一人おられたので火事除けのお札を買ってしばらく話しをして戻りました。

首無し地蔵、

お地蔵さんの首が無いのです。昔から無いのです、不気味ですね、

午後4時、ここで本日4度目の休憩をして残りのおにぎりを2個食い切りました。この山行では登り4時間で2度休憩、愛宕神社でお参りと神職との話で少し休んだ他は下り2時間で1度ここ首無し地蔵で休んだだけでした。休憩の時間は5分から10分以内でした

兄弟で張り合ったわけではないのですが山岳部時代の癖ですかね?。

登りは弟の方が遅れ気味でしたが下りになるとガゼン元気を出して飛ばすので久しぶりの登山靴でカガトに豆が出来て潰れて痛くてたまりませんでした。

ジムニー集団がまだいたので頼んだ軽トラの件を聞いたら「あの後スグに脱出させました」と言ってくれました。やはりこんな山中に1台で入ることは無謀です。

事故でも起こしたら助かりませんから、携帯も圏外が多いので救助の連絡も出来ません。私もやってしまって地元の人に救助を頼んだことが何度かあるので偉そうなことは言えませんが。

5時に車の置いた所に着きました。約6時間年寄り2人はよく頑張りました。帰ってスグに風呂に入りましたが夕食は疲れすぎたのか食欲がワキマセン。無理に食わずに食欲が出て来るまで待ちます。

弟に電話したら「思ったより歩けた、月に1度は歩こうよ」と強がっていましたが、明日の朝には足腰ガタガタで寝込むのではと思いますが歳をとると次の日よりもその後に出て,疲れがしばらくとれないのです。

明日からが心配な年寄りの無謀登山でした。

今日の万歩計3万歩を越えました。何時もは四~五千歩程度なのに今日は計り出してから最高値です。

 

 

 

 

 


農家の活性化では田舎は生き残れない

2015年02月16日 | カントリーライフ

地方の過疎化を食い止めるための方策が日本農業の復活だと言う考えは的を得た方法だとは思われません。

もう農家に託した日本国民の食い物を作る役張りは終わりました。毎年膨大な補助金、援助金を国民(都市生活者)が負担しながら食糧自給率は下がる一方です。

補助金漬けで自立出来た産業はありません。食糧安保とか食の安全など耳障りの良いキャッチフレーズで税金をドブに捨てたか?

今また6次産業化などと言って無駄に税金を垂れ流しています。

有志以来、農民が1次産業品(米)を商ったことはありません。江戸時代からズーと作るだけが仕事だったのです。(戦中、戦後しばらく闇米として売った経験はあっても、売る努力をしたわけではありません)

その農家が2次(加工)、3次(販売)までして、合計6次と言うわけで中間業種を自分でやるからボロ儲け!

商売とはそんな甘い物ではないよ!と商売人に言われてます。その通りに沢山な補助金をもらいながら使い果たせば終わりと言う結果になると私は見ています。

今の農家に幾らテコ入れしてももう元には返りません。

地方が今のように荒廃したのは地方は農家の支配地(言い方が少し可笑しいが)として農業を独占させたことに誤りがあったのです。

私も以前から農業に参入させてもらう試みを幾度かしましたが、街から来た人という差別があり、気持ちよく取り組めませんでした。

だから、最近は自分で食べる分だけを気軽に作る自家菜園を試みるようになりました。

家族で食べるぐらいの野菜を作ることぐらい簡単なことはありません。金魚や熱帯魚を飼うことより簡単なのです。(同じ生き物でも動物と植物は大違いです)

たった4坪の菜園でも夏場は家族で食い切れん位のキュウリや茄子、トマトやピーマンが出来ます。サラダ菜などは食べた後からタネをまいておくと寒くなるまで毎日の食卓に充分にのせることが出来ます。テラスやベランダではプランターで充分に育てることが出来ます。

無農薬(低農薬)で自分が納得出来る安全野菜をつくることが出来るのです。

日本の気候は温暖化のお陰か? 北国でも高原でも雪の降らない季節は野菜つくりが素人でも出来ます。

温暖化だけではなく、日本の国は四季があって作物の種類も豊富です、何よりも日光と水と土があれば野菜は勝手に育ってくれます。肥料なんぞは1年目には何もやらなくても育ち、実を付けてくれます。少々曲がっていようが実が小さかろうが野菜は野菜らしい味と香りがします。実は熟せば甘くなってくれます。

適当に庭の片隅にホームセンターで土を買って来てタネをまいて水をやればパセリや青紫蘇などは毎年芽を出します。

種子会社やホームセンターが季節ごとの素人農業に懇切丁寧に教えてくれます。

家庭菜園用の書籍が山ほど出ています。ネットでも情報が得られます、農家より安全な野菜を上手に作る人が私の周りでも沢山おられます。

これまでは作物つくりのノウハウは農家しか伝わってないと思われていましたが自家消費分ぐらいの野菜は素人でも作れるのです。

そして、多くの日本人は自家菜園で自家使用分の野菜は作るべきだと思います。今年の春から試みて下さい、やたら簡単に育ちますから。

市場に出荷する農作物は農家では自分で食べませんもの、自家使用分は別に作っていますから。(何故かはお分かりと思います)

今後現在の農家は今の代で絶滅します。(国の方針ですから、助かり様がありません)

農業を商売として取っ組んでくれる人が素人が作れない作物やシーズン外の作物などと、都会生活者のための食べ物を作ってくれるでしょう。

何代にも渡って都会に住んで故郷を持たない人々が過疎地に移ってイギリス貴族のように広い土地で「田園生活」を楽しみながら子作り、子育てをするところになればと思っています。

そうなれば「田舎暮らし」という農村暮らしではなく、明るい「田園生活」に日本も地方のイメージが変わるのです。

NPO法人 ごっこ屋本舗 はそのためにも立ち上げました。ご期待ください。(仲間に入って下さい)


戦争時の経験を南海トラフ大地震対策に生かせないか?

2015年02月16日 | 少子化対策は故郷つくりから

産経ニュースから

>海抜ゼロ地帯の住民受け入れ先確保を 愛知県、南海トラフ巨大地震による津波発生を想定し計画<

 その他和歌山>「対策を尽くしても死者を防ぐのは困難で、高台への集団移転の検討が必要」(同県)とする同地域の指定は極めて異例で、今後議論を呼びそうだ。<

上の記事は名古屋地区のことを言っているのですが被害が出るのを前提にしています。国民が被害を受けてアタリ前と思っているのか?

和歌山では高台への移住をやっと言い出しました。「集団移転の検討でさえ極めて異例で、今後議論を呼びそう」などと寝ぼけたことを言っています。

行政も、モチロン政府も、その上マスゴミも今さら何を寝言を言っているのか?

それでも、和歌山では逃れられないことが今になってわかったのか?

みんな、ひっくるめてバカヤロウ! 遅すぎるのじゃ!

戦争末期(70年前)アメリカの日本本土に対する無差別大虐殺(空襲)が激しくなり始めた頃、全国の大都市が次々に焦土と化していきました。

私の住む京都では焼夷弾による類焼を少しでも防ぐために京都市内の真ん中に広い防火帯を作りました。

京都の街は碁盤目のように東西、南北にほぼ直線の道路が平安の昔から整備されていました。しかし、それらの道は幅がそんなに広くないのでそのままでは大規模な火災には防火帯として余り役には立たなかったと思われました。

そこで、東西には五条通り、御池通り、南北には堀川通りを防火帯として広げました。(今も東西南北のメイン通りとして役に立っています)

この通りは狭かったので広げるためには両側の家の立ち退きが先決でした。今なら立ち退き交渉は住民が立退料の額を釣り上げるために20年も30年もかかるのですが戦時中は有無を言わせ無かったと思います。(国民みんなの意識も高くて公共の利益のために我を押さえる気持ちがあった)

戦争中ですから男は年寄りか私のような子供しか残っていませんでした。そして、ユンボやブルトーザの様な土木機械も無かった頃ですから家を倒すのから総て人力に頼らなければなりませんでした。

その人力も女性しか残っていません。私の母も五条通りの家を倒すのによく出かけていたのを覚えています。男の年寄りの指図でロープをみんなで引っ張って倒すそうです。

帰りには倒した家の板っ切れを束ねて背負って帰って来たのを覚えています。焚き付けにするためです。当時ほとんどの家ではカマドで炊事をしていましたから。

なぜ、長々と70年前のことを書いたか?

空襲で焼かれてから逃げるより、少しでも被害を少なくする工夫を当時として精一杯の努力をしていたと言いたかっただけです。

同じことが自然の猛威である津波被害から少しでも免れることを上(上ではないのですが国や行政や学者)の頭が働かない時には我々国民が出来る範囲で対処しなければ最大の被害者は我々庶民です。

被害を受ける前に被害を受けない所に移動すると言う判り切ったことを実行することで被害から逃れることが出来るのです。

アナタだけではなく、アナタの家族も、津波から逃れるのは、津波の来ない所に住まいを移すことです。

そのためにこれまで「田園生活・少子化対策」として提案して来ました。もう一度このブログを見て下さい。

 

建国記念日の橿原神宮・紀元2675年世界一の歴史の誇り

2015年02月12日 | 日本人が幸せになるには

例年恒例になってい建国記念日の橿原神宮(神武天皇=初代天皇を祭る)参拝と参道での国旗販売を手伝うのに朝7時に我が家を来るまで出発、凍てついた道を京都へ、実家の神社に車をとめて、西大路駅から京都駅へ、近鉄特急で橿原神宮に10時前について、参拝。

今年は朝鮮人の嫌いな旭日旗もヒラメていました。

その後お昼まで参道で国旗を販売しながら、憲法改正のための署名運動をしました。

多くの参拝客が通る

支那人が嫌いなチベットの旗も

憲法第9条にシガミツク左巻きに対抗「脱9条」の旗

これも恒例右翼モドキの街宣車の群れ

以下は昨日(紀元節)のミナキクラブメルマガの記事

建国神話を想う

 2年前の一月に奈良県の橿原を訪れたいへん驚いたことがあった。

 それは私自身が紀元前660年に神武天皇が即位され国を開かれたことをただの神話と考えていたが、その浅はかな自分の考えに気づかされたことだ。

 きっかけは岡島茂雄氏の『日本史を歩く』という著書を読んだことだった。昭和15年の皇紀2600年祭に合わせ、神武天皇を祭る橿原神宮外苑の整備工事がおこなわれた。その際、京都帝大の若き末永雅雄博士を中心に大掛かりな発掘調査がおこなわれた。その結果、大量の縄文・弥生遺跡とともに櫟樫(いちいがし)の切り株が多数見つかった。古代橿原の地には神聖な樹木である樫の森があり、そしてそれを伐採して造った大きな建物跡も見つかったそうだ。つまり大宮殿が建てられた可能性がある。さらに戦後、その切り株をアメリカの大学に持ち込み、放射性炭素測定法で測ったところ、2400年から2800年前に切られた切り株だった、つまり神武天皇が国を開かれた時期とピタリと重なる 。今までどうして神話を軽く見ていたのだろう。自分の目で確かめてみたくなり橿原へと赴いた。

近鉄橿原駅を降り、畝傍山を目指して歩いて行くと橿原考古学研究所付属博物館があった。当時の発掘で出土した大量の土偶やクジラやフグの骨、また青森の亀ヶ岡式土器など全国の土器や石器など、橿原の地を中心とする交易圏の広さを証明する大量の遺物が展示されている。奈良盆地の南部である飛鳥の地に鯨をどうやって運んだのだろうか、想像すると大きな勢力があったことが感じられた。橿原遺跡は縄文時代晩期(約3000年前)の西日本最大級の遺跡だった。

 ところが調べてみると教科書には一切載っていない。おそらくほとんどの方も橿原遺跡という名称すら聞いたことも無いのではなかろうか。博物館学芸員の方から話を伺いながら、ひょっとして戦後に何らかの意図が働いて消し去られたのではないか、想像すると何か大切な忘れ物に気がついたようでワクワクしてきた。

そこで、近くにある橿原考古学研究所に行き、職員の方にさらにいくつか質問をさせていただいた。< 以上ミナキクラブメルマガより

私も近い内に(もう少し暖かくなったら)橿原考古学研究所付属博物館に見学に行きたいと思っています。

戦前紀元2600年のお祝いが盛大に行なわれました。私の産まれたのは紀元2598年ですがまだ幼児だったので思い出はありませんが「紀元2600年」と言う歌も出来てその後も唄われていました。

>奉祝國民歌「紀元二千六百年」 
内閣奉祝會撰定/紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定 
 増田好生 作詞/森義八郎 作曲

 金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて 
 いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
 あゝ 一億の胸はなる
 歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
 はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年
 あゝ肇國(ちょうこく)の雲青し
 荒(すさ)ぶ世界に唯一つ ゆるがぬ御代に生立ちし
 感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年
 あゝ報國の血は勇む
 潮ゆたけき海原に 櫻と富士の影織りて
 世紀の文化また新た 紀元は二千六百年
 あゝ燦爛(さんらん)のこの國威
  
 正義凛(りん)たる旗の下 明朗アジヤうち建てん
 力と意氣を示せ今 紀元は二千六百年
 あゝ彌榮(いやさか)の日はのぼる<

それにしても「古事記」の記述は神話から始まり史実を書き残した世界に誇る立派な歴史書だったのですね。

次には「紀元2700年」の歌が出来るのが楽しみですがその頃はもう私はいませんが。

 

 


明日・2月11日は紀元節(建国記念の日)・橿原神宮参道で国旗売りをやってます(午前中)

2015年02月10日 | 日本人が幸せになるには

毎年恒例の紀元節の橿原神宮参道での国旗の販売を今年も午前9時半頃からお昼頃まで橋の側でヤッテイマす。

この国旗の販売は日本世論の会関西支部が紀元節に恒例でやるのを手伝わしてもらっています。

同じ場所でミウラ折の「国旗、君が代」「教育勅語・原文・口語訳」「古事記のカミサマ」などの販売もやっています。

午前中橿原神宮にご参拝の方、お声をかけて下さい。

 

今日は茨木市社会福祉文化会館で2時から開催の「古事記講座」を聴きに行く予定でしたが昨日からのこの冬一番という大寒波来襲の予報で大事を取ってやめました。

確かに朝はマイナス6度で雪も降り続いて道路は危険な状態でしたがお昼位から雪も止み三時には日差しがポカポカと暖かく春のような陽気になって来ました。

なにしろ我が家から茨木市の会場まで雪が無くても2時間余かかるのです、今日のように雪が国道かでコチンコチンに凍てついていると雪道に慣れていない市内から来る車との接触がよくあり、高齢者にはなおのこと注意が必要と言われています。(本人はあまり切実には思っていませんが)

明日は京都市内まで車で出て、近鉄で橿原神宮まで行く予定です。朝早く出なくっちゃ。


過疎化再生(2)前回の続き

2015年02月08日 | 少子化対策は故郷つくりから

偶然ですが昼飯を食っている時にBS NHKが流れていました。地方再生の問題を有識者と言うか?放送に都合の良い人ばかり集めて討論でも無いのか? 

順番に話して、韓国やヨーロッパの過疎地からの映像や現地の人達の話が流れていました。思った通り従来の国の(役人や有識者と言う現実に無知な輩の提案)方針と変わらな過ぎてアホらしくなって10分ほどで切ってしまいました。

地元のインフラ整備が先決だと言っていました。そして、子育てのための補助金の増額も(これこそ若い夫婦をバカにした議論は無いと私は思っています。)

産めばお金を出します。産めば子供を保育所で預かります。教育費は充分に差し上げます。何事も金で解決出来る問題ではないのに、金の負担を減らせば良いと言う嫌な風潮を国家が推奨しています。

金金金金が総て、総てが金が解決してくれる。こんな風潮を拒絶出来るのは若い人達だけです。(若者が政治に関わる事が今こそ大切な時期なのです。)

「国家のレベルは国民のレベル以上にはなりません」レベルを揚げられるのは若者しか居ないのです。

「老いて学べば、死して朽ちず」なんて言って年老いて急いで学んでいる人が居ますが「死んで朽ちない」なんて気持ちが悪いでしょう。

日本人は昔は子供の頃に基礎知識を学んだから優秀な人が次々に出て来たのです。(受験勉強が学ぶ事の最後なんて。科挙の制度をとらなかった事が日本の長所だったのに特に戦後は人間としての基礎知識無しの学校制度が亡国につながっているのです。)

「結婚とは自分たちの系譜が未来に続くために、次世代の日本人を育てるためにするものなのです」

その目的は「こどもを自立させる」なのです。それが出来るのは親なのです。

親の中でも母親の役目が一番大切なのだと言う事が私の主張です。日本人としての基礎知識を教育出来るのは母親だけです。

母親が立派な家庭には良い子が育っています。

いじめっ子の母親を見たら判ります。そんな母親にはイジケッ子か? いじめっ子しか育っていません。

単に快楽のためだけに子供を作り、作った子供は保育所や学校で国の都合の良いように育てて、親子関係を希薄にする。

単に人間を労働力としてしか見ていません。女は子供を産むマシーンか?、さもなくば労働力?、年老いたら老人ホームで医療産業のエサにする。

独裁者の考えていた「未来図」が着々と現実化して来ている日本の現状に恐ろしさを感じないのか?

脱線しましたので、つぎに。