鎮守の森の学校(京都北山細野の神主)

日々感じる事を想いのままに書き綴っています。神主として品位に欠ける表現が有るのはボケが始まったとお許しください

平成21年って良い年だったかな?

2009年12月31日 | 喜寿からのチャレンジ

平成21年もあと少しで終わります。私の人生71年の中でも今年はいろいろなことがありました。何時も変化に富んだ日々を送ってきましたが特に今年は三っの大きな出来事がありました。月を追ってあげますと。

一、青葉仁会に就職をした。四月に榊原理事長から青葉仁会の就労部をみてくれとの依頼を受けて五年のところ高齢だからということで三年に値切って引き受けました。六月から始まったので今日でちょうど七か月が過ぎました。年明けからが正念場です。あまり張り切っても皆がついてこないだろうし、ゆっくりでは三年はあっという間にすぎてしまい、何のために青葉仁会に行ったのか?意味がなくなってしまいます。難しいところですが人生最後のご奉公と思い、頑張ります。

二、母が亡くなった。九月三日に九四歳一カ月の天寿を全うしました。本人も家族も満足できる年齢でした。亡くなる十日ほど前まで頭はまともに、考えもぶれてはいませんでした。我が家のドンでした。母が亡くなったことで親族の中では私が一番の高齢者になりました。母のような存在感を出すことが出来るか?心配です。

三、生まれて初めてボーナスをもらいました。福祉施設ですから大した額ではありませんが、早い時期から自営業で、会社にしてからもボーナスは出す方でもらうことはありませんでしたから、本当に生まれて初めてのボーナスでした。私にとってはこれは初めての体験で大きなことでした。何だか、ボーナスと言うのは不労所得のような気がしますが、良いものですね。あっという間に無くなりましたが。

これはあくまでも個人のことで、日本のこと、政治のこと、世界のことなど憂うべき事柄が山積みです。しかし、大和民族は幾多の困難を勇気と英知で克服してきました。今世界で起こりつつある変化も日の丸の下団結して克服できると確信を持っています。日本民族としての誇りを取り戻せばすべて解決できることです。

明日からまた新たな決意で頑張るぞ!何って大層なことを思っていますが、明日は五時起きで京都北山細野の三社のお宮さんをまわって元旦のお祭りをしてきます。

この時間雪が積もり始めました。明日の朝はどれくらい積もっているのでしょうか?

祭の間は神主も氏子も外ですから寒いのです、おそらく明日の朝はマイナス五度以下でしょう。厚着してカイロを入れてゆきます。初めてですが。

それでは、今年もつまらんブログにつきあっていただきましてありがとうございました。来年はもう少しゆとりが出ると思いますので真剣に取り組みたいと思います。

皆さんにとって来年こそ良い年でありますように、ありがとうございました。

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遭難が続いた・正月の山は荒れそうだ

2009年12月31日 | カントリーライフ

先日、片山右京パーティーの富士山での遭難・京都大原金毘羅のゲレンデでの森中プロガイドの転落死など係わりのあった人達の遭難が続きました。

私自身永年山登りをやってきて、仲間や後輩、店のお客さんだった登山者の遭難死に多く立ち会ってきました。とくに冬山の遭難には救援にも出かけましたが、残念ながら日本アルプス、富士山での遭難では生きて救出をしたことがありません。総てが遺体の搬出で終わってしまいました。

日本の高い山の冬は過酷です。特に冬の富士山は日本で一番厳しい山だと私は思っています。

冬の富士山で山岳部の後輩2名を亡くしました。また1年だけ指導した後輩ものちに冬の富士山で亡くなりました。

私自身も昭和30年代に11月下旬に富士山のお鉢の中に2張りのテントを張っていて、強風でズタズタに引き裂かれてしまった経験があります。

先日片山右京さんが遭難された翌朝に京都北山の自宅から奈良の青葉仁会に向かう途中、木津川の堤防を走っていたら娘から電話が入り、片山右京さんが富士山で遭難されたらしいと知らせてくれました。

片山右京さんはモンベルのアドバイサーをされていて、モンベルの辰野会長が青葉仁会の理事をされているので、青葉仁会のイベントにはよくお出でになってマウンテンバイク教室などしてくださったり、オリジナルグッズを青葉仁会で作らしてもらっています。

私はあまりテレビも見ませんし、新聞はもう20年ほど取っていません、遭難の状況を知りたくてモンベルの辰野会長に携帯を入れたら、「△○X△○X???・・・・?」とヒンズー語(?)らしき女の声でいきなりまくし立てられて、ビックリして電話を切ってしまいました。ほどなく辰野会長から電話があり、カトマンズ―に来ているとのこと、片山右京さんの遭難の件も概略は把握しているとのことでその時点で明らかになっていることは教えてもらいました。

まだ遭難の状況を正確には把握していませんが、山の遭難は関係者にとってつらいものでありますが、今回の片山右京さんにとっては一番過酷な状況に追い込まれておられると思います。どんな遭難でも訳知り顔で批評する奴、訳も分らず誹謗中傷する奴もいます。だけど、本人はあの状況下では精一杯の努力をしていたと私は判断します。死ぬか生きるかは運次第です。片山右京さんにはまだこの世でやり残したことがあったのでしょう。神仏やご先祖の加護があったとしか思われません。

片山右京さんにとっては一人生き残ったことが死ぬより辛い試練になってしまいましたが一日も早く立ち直って亡くなった二人の分も合わせて社会に貢献してほしいと思います。

元気な時の顔はまだ30代前半のような若々しさでしたが、遭難時の写真は心痛が顔に出て痛々しい限りでした。

森中プロガイドの事故はお客さん2名を金毘羅のゲレンデで指導中の転落死でした。本人には気の毒ですがお客さんの事故でなくてまだ救われたと思います。

森中プロは私の店を引き継いだ店を手伝ってくれていました。数年前に剣岳の岩場で落ちて怪我をして富山の病院から私に京都で入院出来る病院を紹介してくれと言ってきたので知り合いのお医者さんに紹介をしたことがありました。

まだ56歳でした。プロガイドとして成熟する頃ですが残念なことでした。人の寿命は注意だけでは伸ばすことができないのでしょう。

写真は数年前の年末の八ヶ岳赤岳頂上からの富士山です。

この年末、冬型が強まるようです、山では逃げ足の速さが生死を分けることがあります。状況を早く判断して行動することです。

「山は逃げません」次のチャンスもあります。生きて帰ることが一番大切なことです。

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マイナス8度・やはり北山は寒い

2009年12月21日 | 自然

この寒波で北山に移って30年来年内にマイナス8度を経験したことは初めてです。

通常ならこの低温は1月から2月にかけてしか経験しない温度ですが、今年はもうやってきました。年明けどんな寒さが待っているのか恐怖です。

年のせいか?昨年暮れくらいから頭がやたら寒くて帽子をかぶり始めました。

首筋の寒さを防ぐためタオルを首に巻くのはもう随分前からやっています。

家の中での姿を鏡で見るとまったくジジイそのものです。(その通りで仕方がないが)

私の寝ている2階の部屋は暖房がないので朝方枕元の温度計を見ると0度を指しています。

昨夜から湯たんぽを抱えています。湯たんぽは寝る前までマキストーブの上で温めていますので快適です。

電気マットは熱くてもよけることができませんが湯たんぽは熱ければ蹴りだせますし寒い時は腹に抱え込めますからここ数年愛用しています。

お湯のぬくもりがジワーと効いてきて快適です。

なんだかイジケタ話になってきましたね。

写真は夢想庵の狛犬(モドキ?)も雪で寒そうに見えます。

いよいよ真冬になってきました。マキストーブの恋しいシーズンになりました。

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懐かしい電気自動車今昔

2009年12月21日 | 環境問題

先日新幹線京都駅で広告看板に今と昔の電気自動車の写真が出ていました。

手前の車は現代の電気自動車ですが、後ろに写っているクラッシックカーに見覚えがあります。

終戦前後?、毎日?のように目の前を通って行くこの車を見ていました。

看板には1917MODELデトロイト号と書いてありましたから、私が目撃していたのとは違うかもしれません。

私が見ていたのは座席が向かい合っていて真ん中にハンドルでしょうか?バーが出ていてそれをハンドル操作していたように思います。

ちょうど今上天皇ご成婚パレードの時の馬車のようだったと思います。(ちなみにご成婚パレードは東京青山何丁目かの町内席で見せてもらっていました。若き日の美智子妃の輝くお顔は今も目に焼き付いています)

馬車のような電気自動車が頻繁に見られたのは京都の西大路八条の交差点を北から下がってきた車が右折して西へ向かうところです。

三條の島津製作所から今のJR西大路駅の側の日本電池に向かうためだったのです。

島津製作所と日本電池は姉妹会社だったからでしょう。

懐かしい写真を写しておきました。電気自動車を見たのはモハヤ60年以上前のことですが鮮明に思い出しました。

物覚えが悪い割にはつまらんことをよく覚えているな!と我ながら感心しています。

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母の供養に「古事記のものがたり」

2009年12月20日 | 歴史問題

母の100日祭も過ぎ、納骨も過ぎ一段落して、母と生前から相談していた縁者の人たちにお配りするお供養を配り始めました。

普通は箱に入ったお菓子などをお配りするのですが、母と相談して納得してくれていたのが「古事記のものがたり」小林清明、宮崎みどり著でした。この本に青葉仁会クリエイト班紙漉き部で我が家の家紋の透かしを入れて次のように書いた和紙を作ってもらい入れて1冊ずつ包装してもらいました。

贈呈

母 つね 平成二十一年九月三日帰幽 享年九十四歳一ヶ月の天寿を全ういたしました。

生前読書の好きな母は九十歳を過ぎても眼鏡もかけずに好きな本を読んでいました

母がまだ元気な頃、いろいろな書籍について語り合いました。その話の中で母が亡くなったら供養に何か書籍を選んで皆様に貰っていただこうという結論になりました。

そこで母と一緒に選んだのがこの本「古事記のものがたり」でした。この本は難しい原本を今風に分り易く書かれているので古事記の入門書としては最適と思い選びました。

その国の歴史はまだ文字のなかった神話の時代から現代につながっています。

日本の国にも古事記と言う世界に誇れる書があり、とくにこの本に書かれている上巻は文字に書かれた歴史が始まる以前の神代のことが書かれています。

天地創造から神々の出現、八百万の神々の活躍、日本国家の成立の序幕がダイナミックに書かれています。

一人でも多くの人たちにこの古事記の本を読んでもらい日本民族としての誇りを取り戻してもらいたいと思います。

読書の好きだった母 つねの思い出と供養のためにこの一冊をお納めください。

私たち兄弟三名の連名

以上のような文章をつけて用意しました。

12月1日に著者自ら200冊を青葉仁会に届けてくださいました。このお供養が元で日本の神話、歴史に興味を持ってくれる日本国民が増えればこんな供養は無いと思います。

「古事記のものがたり」は小林清明、宮崎みどりのお二人が自費出版され、自分たちで販売努力されてモハヤ3万冊を超えているということです。

10万冊、100万冊も売れても不思議でない本と私は思っています。

この本がきっかけで正しい日本の歴史を知ることに目覚める人が出てくれば、自虐的歴史観に虫食まれた戦後の歴史教育を正す機会になるものと思います。

 

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寒い中ポン菓子を作る

2009年12月20日 | 喜寿からのチャレンジ

昨日19日の土曜日は青葉仁会のカレー製造所のある奈良帝塚山南デリカテッセン イーハートープで恒例の朝市の開催に合わせてポン菓子作りをやりました。

軽トラに積んだポン菓子機で寒風が吹きすさぶ中で6キロのコメで作るのですが、他所の朝市などは野外でやっていますが、ここは屋内で開催しています。

ガスでカマをあたためている間私一人寒い野外で震えていました。なんで一番年寄りのわたしが? と言ってもポン菓子機は私の私物ですし、出来るのは私しかいませんからやるしかないのですが。今になって大金をはたいてポン菓子機を買ったのを後悔しています。商売でなく趣味?でポン菓子をやっている奴はこの世の中でもマレでしょう?

おられたら名乗りを上げていただきたい、同好のよしみで仲良くしましょう。(そんな酔狂な人は居ないでしょうが。)

ポン菓子機はコメ余りの今利用価値の高い機械と思います。もっと普及してもよいのではないかと思います。

それこそ、農水省や農協などはポン菓子機購入に助成金を出してもバチは当たりませんよ。公害をまき散らす自動車でさえエコ減税などという訳の分らんバラマキをやっているのですから。コメの消費推進のために日本のポン菓子屋さんに有効な支援をお願いしたいですね。

票にならないもの見返り(賄賂)のないものに金を出すほど日本の政治家はバカではないですね。(これヒニクのつもりです)

写真は昨日のポン菓子機、大分クタビレテきたので、一度メーカー(北九州市)にオーバーホールに出したいと思っています。

ポン菓子を作るのも体力が結構いります。夏は暑くてたまりませんし、冬は風が強い日はガスの火が安定しません。何より寒さに耐えきれません(単に軟弱なだけですが)年が年だからいつまで続けられるか疑問ですが。だがもう少し、頑張るぞ!

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1年2ヶ月ぶりの野球・身体じゅうガタガタ

2009年12月19日 | 野球

16日6時半から9時まで(夜ですよ!)奈良市田原町の「田原やすまろグランド」で青葉仁会の職員チーム(未だ出来てませんが)の練習があり私も参加しました。

この日夕方5時半頃から青葉仁会の周辺は雪が舞っていました。

何しろ昨年秋に永年の野球を引退して1年以上経っています。先日赤城に行ったときにこの日練習するということを聞いていたのでワクワクしてこの日を待っていました。

ところが生憎の今年初めての雪が舞う始末、それでも聞いたグランドへ一番乗り、真っ暗な寒々した駐車場で皆が来るのを待ち照明を点灯してキャッチボールの練習から始めました。

やはりと言うか、肩が固まっているのか球離れが悪くこの寒い中汗ばむほどキャッチボールをしてほぐし、トスバッテイング、内野のノック、外野ノック、フリーバッティングなど一応やりました。

ノックなど何年ぶりでしょうか?特に外野フライは腰が入らなくて遠くに飛ばすのに苦労しました。

今日の練習は総数私を入れて8人、内女性1名(この女性は他の男性メンバーより上手なので「ソフトボールをしていたの?」と聞きましたら「野球をやっていた」道理でうまいはずです。)

このグランドナイター設備があり9時まで使えますが、照明が雑で私のような年寄りには球が見ずらく芯でとらえることができません(下手な言い訳!)

それに、このグランド名がすごいでしょう。「田原やすまろグランド」です。

近くで太安万侶の墓が最近見つかり、架空の人と一部左翼の学者たちから言われていました。古事記の編者太安万侶が実在の人ということが証明できました。

その名を記念して入れたと思うのですが、この名前安易なつけ方と思いませんか?

ノックもほとんど私がやりましたが、二日たってもまだ足腰ガタガタ、フリーばってんぐでも少しは投げたのですが、すぐに疲労困憊、走ってもスピード感全くなく、これではセンター前に打ってもファーストでアウトは目に見えています。

9時に終わって、明後日のポン菓子機を取りに京北の住まいまで帰りました。付いたのが12時。

写真は「田原あすまろ」グランドです。もう少し気の利いた名前が考えられなかったのでしょうか?

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王雲宮(一灯園納骨堂)に母のお骨を納める

2009年12月19日 | その他

100日祭を終えた次の日(16日)兄弟親族8人が母のお骨を京都市山科四宮の奥にある一灯園の納骨堂・王雲宮に納めに行ってきました。

一灯園は、明治37年(1904)西田天香さんいよって創設されたもので、自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、また働きを金に換えないでも、許されて生かされるという信条のもとに、つねに懺悔の心をもって、無所有奉仕の生活を行っているところです。(一灯園小冊子より)

これだけの説明では分かりにくいと思いますが、調べてください。

ここ一灯園に王雲宮という円形の納骨堂があり中には逗子を中心に100人が座れるような三段の座席があります。

この納骨堂に父のお骨も入れてもらっています。母も同じ納骨堂に入れてほしいとの希望で西田たけし当番さん(天香さんの孫)にお願いしこの日10時から納骨してもらいました。

父は生前一灯園の劇団・すわらじ劇団の後援を永くやらせていただいていました。

一灯園はここで語るよりも一度訪れるほうが理解できます。春の花見時は一灯園の南に流れる疏水沿いには桜の花が満開になり多くの人たちが訪れます。

納骨の後はいつものように国道1号線にでて大津方面に進むと日本一のうなぎ屋かねよでうな丼をみんなで食って帰りました。

写真は一灯園納骨堂王雲宮です。両親のお骨はこの中に西田天香さんたちと一緒におさまっています。

我が家の墓は伏見城の側の尼寺にあります。ちなみに、私のお骨は静岡の沖合の太平洋に散骨してくれるように子供たちに頼んであります。太平洋の潮の流れに乗って世界に広がって行けば幸せです。

 

 

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ハナ(猟犬)が行方不明になっていました

2009年12月16日 | 狩猟

月曜日、2匹の猟犬を妻が朝の散歩に連れて行ったときハナ(ビーグルとテリヤのあいの子)を放してついてこさしているのですが、フト居なくなってしまい昨日も私も午前中峠の下の方まで捜しに行ったが気配もなくほとんどあきらめていました。

冬型の気圧配置になり今夜にも初雪がこの辺りにも降るだろうから、シカよけのネットに絡まっていたらもう駄目だろうと思っていました。

けさ、もう一匹の犬を連れて散歩中に何かの予感で下の檻を見に行きました。

昨日はこの檻の上で呼んだり、口笛を吹いたり、犬笛を吹いたりしていましたが何の反応もありませんでした。

この檻は少し暗い所に置いているので中がよく見えなかったのですが、近ずくと檻の入口が落ちていて中にハナがションボリ座っていました。

声をカケテモ黙って座っています、よっぽどショックだったのでしょう、入り口を開けてもすぐには出てきません。そのうち出てきたらビスケットを差し出しても見向きもせずに家の方にすっ飛んで行きました。

丸二日檻の中でイジケテいたようです。こんなとき犬は吠えないものなのでしょうか?

3年ほど前にもう一匹の犬が檻に入ったのですが、その時は吠えまくっていました。

ハナは身体の割には太い声で良く鳴く犬でしたが。もうこれに懲りて檻には近付かないでしょう。

それにしても今日見つけられて良かったと思います。明日以後なら当分檻も見に行ってなかったと思いますから。

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母の100日祭を執り行う

2009年12月16日 | 信仰(宗教)

昨日実家で9月に亡くなった母の100日祭を執り行いました。

夕方6時から親戚ばかり30数人が集まりました。我が家は神式ですから弟の一人と甥が神主として行いました。

母の写真は50年ほど前のものです、94歳で亡くなったにしては若すぎる写真ですが生前母の希望の写真でしたから使いました。半世紀前といっても40数歳にはなっていました。昭和35年ごろでしょう?

我々子供にとっては母のイメージとしてはこの写真の頃が記憶としては残っているようです。決して亡くなった今年の母のイメージではないのです。不思議ですね?私だけでしょうかこのように感じるのは。

佛式の法事と違って神式は簡単です。神主の祝詞と各人が玉串を捧げて拝んでも、30分ぐらいで終わってしまいます。

その後同じ場所で親戚の仕出し屋から料理を運んでもらい直会をし、兄弟の家族、いとこ、またいとこなど幼いころからの顔ばかりで言いたいことを言って9時ごろまで楽しく過ごしました。

一応私が喪主ですから挨拶もどきのものはやりましたが形だけであとはワイワイガヤガヤとどこまで続くか?という感じでした。初めこそ母が話題になりましたがあとは子供の頃の話やその後のこと現状のこと将来のことなど、過去を共有している親族同士の話は尽きることなく続きます。

近くに住んでいたので従弟やまたいとこなど子供のころから兄弟のような付き合いがありました、その中でも私が一番年長者であったためか、みな弟や妹のような感覚で接していました。今は現実にはジイサン、バアサンですが。

息子や甥たちは今どんな感覚で我々を見ているのか興味がありますね。

息子たちの時代もこんな気持ちで親族同士の付き合いを続けてくれたら良いのにと思います。次代は私の長男がまた最年長ですから、良いように仕切ってくれることを望みますが。

次の日朝から納骨ですから9時過ぎにはお開きにしました。楽しい法事(祭り)でした。

写真はこの日の祭壇です。右に写っている赤い装束を着たのが10数年前に亡くなった父の肖像画です。母も同じ高名な画家に描いてもらった肖像画があったのですが母がその絵が気に入らなくてどこかに仕舞い込んだか?あえて使いませんでした

 

 

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