あれは
寒い寒い真冬の朝だった
ある郊外の
数十年前に廃墟と化した
黒ずんだコンクリートの
ボーリング場の駐車場で
不法廃棄された八〇年代の車の中で
暖め合おうとするかのように
きつく抱き合ったまま死んでいた幼い姉弟
彼らの人生よりも
ずっと長く死んでいた時たちが
雪のように痩せた身体に降り積もっていた
彼らが
いつ
そこに辿りついたのか
誰にも判らなかった
誰かがそこに彼らを捨てて行ったのか
彼らが自分でそこに辿りついたのか
彼らの姿すら誰も見たものは居なかった
そこから数十キロ離れた街に
ある女が居た
もうすぐ三〇になるその女は
ある高層マンションの一室で
歯を磨きながら新聞の片隅にその姉弟のニュースを見つけ
内からの光が遮断されたような眼をした
新聞は畳まれ
歯ブラシは洗面所に戻され
女は食卓の椅子に腰を下ろした
小さな二脚の椅子と
向かい合う一脚の大きな椅子
その椅子に深く腰を下ろし
瓦礫の山を見つめるような顔をしてしばらくじっとしていた
壁にかかった時計が九時を告げるまで
女はそうしていた
泣き叫んでいたのは誰?
先に死んだのは弟の方だった
しばらくそうと気付けないほど静かに死んでいた
姉が気付いた時には身体はとうに冷たくなっていたけれど
凍えるように冷たい廃車の中だったからまるで気付かなかった
姉は絵描きが絵を見るように
少し身体を離して弟を見つめた
夜が更けてすぐのことだった
姉は口を開かなかった
もう話しかけても届かないことは判っていた
そうして
もうすぐ自分がそんなふうになってしまうことも
姉は
弟の僅かに開いた眼の中をじっと見つめた
彼のくもった網膜に
自分の瞳が映るのかどうか試そうとしているみたいに
とっくに感情は使い果たしていて
何も受信しないラジオのようだった
姉はもう一度弟を抱いた
もう暖め合うためではなかった
そして眼を閉じると
その人生で最後の夢を見た
もう身体が思うように動かない、寒さとか空腹とかももうそんなに判らない、痛過ぎて痺れているみたいになっていた指先もなにも感じなくなってしまった、夢を見ているみたいに目の前のものが遠い、すぐそばに寝ている弟さえも窓の外の建築物の様になってしまった、心が次第に水になっていくみたい、これが人生というものなのだろうか、私の人生というのはいったい何だったのだろう、遊べなかった、食べられなかった、学校にもそんなに行かせてもらえなかった、殴られたり投げつけられたりして、いつも身体のどこかしらがずきずきと痛んでいた、焼かれた様に身体の内側から疼き続けた火だってあった、空腹と痛みで台所の床に突っ伏している私の横で、あの人は黙って自分の分だけのご飯を作って食べていた、私はどうしてあの人を殴れないのだろう、私はどうしてご飯を作ることが出来ないのだろう、私はいつもどうしてこんなに殴られるのだろう、私はいつもそんなことばかり考えていた、身体のどこにも傷がない時でしか学校に行くことは出来なかった、同じクラスの人たちはいつも、私を知らない人を見るような眼で見た、私はいじめられもしなかった、いじめられるほどに認識されても居なかった、私はただ、色のついた空気のようなものでしかなかった、こうしてきっともうすぐ死ぬのだろう瞬間に思い出すことなんて、夏でも冷えた氷みたいに感じた台所の床のことばかりだ、コンクリートだから夏でもひんやりしているのよ、と、いつかあの人が話していたことがあった、コンクリートだから冷たいのだ、あの人もコンクリートで出来ていたのだろうか、私はあの人に殴られたり投げつけられたりするためにこの世界に生まれてきたのだろうか、きっとそうなんだ、きっと…だけど、私がこうして殴られていなければ、私がもしもそのことを拒んだのなら、あの人はきっとこの弟に同じことをしただろう、だから私は殴られないわけにはいけなかった、あの人はきっと、こんな小さな弟を殴ることだって平気でしただろう、弟にはお父さんが居なかった、それは私の時とは違っていた、私には最初からお父さんが居なかったわけではなかったから、お父さんが居るときは楽しかった、私はあの人に抱っこされて、歌をうたってもらって…お父さん?どこに居るの?お父さん?私いつもいつかお父さんが助けに来てくれると思って、ずっとずっとあの人に殴られ続けていたんだよ?お父さん、弟もう死んじゃったよ?まるで眠っているみたいに穏やかだけれど…お父さん、どこに行ったの?こんなわけの判らないところから、私を連れ出してはくれないの?あの人がお母さんじゃなくなったみたいに、あなたももうお父さんではなくなってしまったの?私、もっと学校へ行きたかった、たくさん勉強だってしたかった、夏休みにはおばあちゃんのうちに行って、カブトムシを取ったりしたかった、きれいな川にはだしで入って、魚が泳いでるのを見たりしたかったよ、私はどうしてそんな風にしてはいけなかったの?みんなみたいに勉強したり遊んだりしてはいけなかったの?私の最期の誕生日は六歳の時だったね、あの時から私はきっと歳をとっていないんだね、どうして私はこんなところで死んでいくんだろう、どうしておとうさんは助けに来てくれないのだろう、どうしてあの人はお母さんじゃなくなったのだろう、どうして弟は私より先に行ってしまったのだろう、お父さん、お母さん…
幼い兄弟のニュースが流れて数ヶ月が経った頃だった
とある高層マンションの一室で女が首を吊って死んでいるのが発見された
隣人が異臭に気付いて通報したとのことだった
台所の入口ドアに子供用のタオルを結び付けて
床に座った状態からゆっくりと体重をかけていったようだった
死体は静かに腐敗していて
首だけがドアにぶら下がっていたと発見した警官は語った
泣き叫んでいたのは誰?
それからしばらくして
姉弟が死んだ廃墟の駐車場の車の中で
後部座席に並んで座っている
女と二人の子供が居るという噂が流れた
興味本位の若者たちが夜ごと群がっては騒ぎを起こすので廃墟は閉鎖され
数年後にはすべてが取り壊されてただの更地になった
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