放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

一関気仙沼南三陸紀行(4)気仙沼街道

2016年09月26日 01時06分19秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました

 一関市の東山町にはもうひとつミュージアムがある。 「芦東山記念館」 一関市東山町の中でも「渋民」と呼ばれた地域にある。「渋民」といえば石川啄木の故郷であるが、ここには江戸時代の儒教学者・芦東山の故郷でもある。


 江戸期、一関は仙台藩の支藩であった。芦東山は伊達の殿様の覚え目出度く、仙台に出仕した。しかし、藩校・養賢堂の設立に関して他と意見を異にし、そのために殿様の怒りを買い、加美郡に蟄居させられた。 このときに書いた著作が「無刑録」。 「刑は、刑無きを期する」とは中国の書籍「善経」の一文とされる。 刑は見せしめや懲罰のためではなく、教育刑であるべきという思想である。東山は蟄居中、暇にまかせて膨大な書籍をよみあさり、刑に関するあらゆる資料を書き留めた。    これが明治維新後ふしぎな縁で陸奥宗光の読むところとなり、元老院から公版されることとなった。現在の刑法にも影響を与えているというから芦東山という人の研究がいかに偉大であったかわかる。


 ・・・と言いたいが、「刑」については現在の価値観では簡単に評価は難しい。「教育刑」なんて悠長な扱いにイラつくともあるし、懲罰刑が懲罰になっていないと感じることもある。ちょっとこの話題はあとに回したほうがいい。いま書いているのは紀行文なんだから。


 さて芦東山記念館を出たときすでに正午を廻っていた。ゆっくりしすぎた。気仙沼でお魚をたべる予定が、間に合いそうにない。  とにかく移動しよう、ということで一気に車を進める。道はわかりやすくていいのだが、やっぱり距離がある。室根高原を左手にかざしつつ、千厩(せんまや)を通過してから一軒のラーメン屋さんを発見。海の幸をあきらめてここで昼食。他に店に出会えそうになかったし・・・。 それからまた車上の人となり峠を一気に駆け下った。あ、海見えてきた。 やっと気仙沼に到着である。このときもう午後3時。気仙沼ランチ計画は見事に崩壊していた。あーなんだかもー疲れたよ疲れたよ・・・。


 けれども納得。


 気仙沼が3.11で被災したときに千厩が支援の前線基地になったのだが、実際に内陸部から物資や応援を入れるとしたら、気仙沼街道一本で来れる千厩が一番だったのだ。(このへんの事情は、仙台を支援するのに作並街道が使われたのと似ている)


 気仙沼街道は県をまたぐ街道だけど、まさにホットラインだったのだ。

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