かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(5)

2024年06月14日 | 脱原発

2012年11月30日

 またひとつ、とても訴求力のあるデモ・アイテムをFacebookで見つけた。「あのね、原発はエネルギー問題じゃないんだよ。人権問題なんだよ!」という善養寺 ススムさんのポスターである。
 原発をエネルギーや電力の問題、ひいては電力を要する産業の問題として括ろうとする人間がいるが、人命を超えてエネルギー問題を選択することは〈普通の人間〉には許されない。
  自分の周囲に放射能被爆で亡くなったり、傷ついたり、病んだりする人がいないことをいいことに、原発を擁護しつつエネルギー問題を論じることを「大所・高所から社会を考えている」と思い込んでいるのは、たいてい田舎政治家である。それを「自分は立派な〈高い〉政治意識を持っているのだ」と自己欺瞞で思い込んでいるので、偉ぶって威張り散らす人間が多い。
 彼らは、ただ単に社会全体に対する想像力が劣悪であるに過ぎない。「田舎」というのは、ローカルな周囲を世界の全てと信じているような視野が狭い喩えなので、東京に田舎政治家がたくさんいるのは不思議ではない。代表格は、東京と大阪に一人ずついる。私はそれを「大所・高所シンドローム」と呼んで、精神的(厳密に言えば思想的)な病気の一つに数えている。

       
善養寺 ススムさんのポスター(FB投稿から)。


 それにしても「あのね」と怒っている女の子が秀逸である。幼稚園か保育所の帽子の紐をきちんと締めた姿の可愛くて凛々しいこと。私には絵の才能がないので、嫉妬というか妬みに似た感情が湧いてくるほどである。
 このような巷の才能について、毛利嘉孝さんが『ストリートの思想』という本に書いている。

二〇〇〇年代のストリートの叛乱は、名人芸を身につけたポストモダン・プロレタリアートが、名人芸を国家や資本に回収させずに、自分たちで使いこなすことで起こった。 [1]

 そして、マルチチュードによる〈帝国〉への叛乱を思い描くネグリ&ハートを援用して、「ストリートの叛乱」を支える人々のありようを描いている。

 ネグリとハートは、人々を運動へと駆り立てる「愛」や「情動」を、「ポッセ」という語で表現している。ポッセとはラテン語で「活動性としての力」を意味する。ルネッサンスの人文主義において、この語は「知と存在をともに編み込む機械」として、「存在論的動性の核心部」に位置づけられていた。
 ネグリとハートがおもしろいのは、この古い哲学用語をヒップホップ用語の「ポッセ」と重ね合わせているところだ。「ポッセ」はヒップホップ文化では、「集団」「仲間」「連中」「奴ら」というニュアンスで用いられる。ヒップホップ用語と重ねられることで、この古い哲学用語は、現在のマルチチュードの存在様式の核として再生するのである。ここで発見された「ポッセ」とは、いかなる対象をも超えていくような「公共性とそれを構成する諸々の特異性を持った個の活動」であり、「新しい政治的なものの現実の起源に存在する」とされる。
 ここで重要なのは、「ポッセ」が、何かに対抗して生まれるもの--たとえば、資本主義の不当な搾取に抗して生まれる反対運動のようなもの--ではないということだ。それは、労働を通じて人間が自らの価値を決定する力であり、ほかの人とコミュニケーションをはかりながら協働する力であり、究極の自由を求める力である。  [2]

 確かに私たちは、今、「反原発」あるいは「脱原発」として、つまり、「何かに対抗して」集まっている。それでも、「ポッセ」である人々の参集と「ポッセ」の発揮によって、「反原発」「脱原発」を実現しながら、その先に、この社会に向けての多様な「協働する力」を生みだしていけるのではないか。そんな希望を私はずっと抱きつづけている(老いて旧弊な自分に苛立ちながら)。

[1] 毛利嘉孝『ストリートの思想--転換期としての1990年代』(NHK出版、2009年)p. 248。
[2] 同上、p. 243。


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