《2013年3月8日》
暮れから1,2月にかけて、ごく身近なことで体も心も休まらない日が続いて、デモにも3回ほど立て続けに参加できなかった。私の人生にも、まだいろんなことが起きるらしいのである。そのようなごく私的な事柄はごく私的に対処するしかないのだが(あたりまえだけれど)、それにさまざまな行動、活動が束縛されるというのは、対処能力が弱い感じがしてへこむのである。
かりにわたしが
累計的に悲しかろうと
わたしは わたしひとりで泣く
ほっといてくれ
吉原幸子「半睡」部分 [1]
どうやら、その極私的な事柄も解決はしないまでもある安定期に入ったので、これからはたぶん自分の意思だけが参加や不参加の要件になるだろうと思う。全部が全部、参加することはできないだろうが、マスコミごときに「反原発運動の退潮期」などと言わせたくはないのだ。
[1] 「続続 吉原幸子詩集」(思潮社 2003年)p.57。
《2013年3月22日》
午後7時頃、いつものように一番丁を声を張り上げて行く。17歳の時から仙台に住み始めて、それから50年。こんなに見慣れた街のはずなのに、ときどき見知らぬ街のように見えることがある。今日はそんなことはないけれども、心が弱ったときにそうなるのであったろうか。
そしてその男は足どりを速める
そして丁度間に合う時刻に
かれらは街角を曲がる、時間どおりの、神と電車。
オクタビオ・パス「午後7時」部分 [1]
私たちは、時間通りに青葉通りの角を曲がる。神に頼らず、自らの力と意志だけを恃んで、心ひそかに、放射能で汚されていく「美しい街」を案じながら。
街よ
私はお前が好きなのだ
お前と口ひとつきかなかつたやうなもの足りなさを感じて帰るのは実にいやなのだ
妙に街に居にくくなつていそいで電車に飛び乗るやうなことは堪へられなくさびしい
街よ
私はお前の電燈の花が一つ欲しい
尾形亀之助「美しい街」全文 [2]
[1] 『オクタビオ・パス詩集』(土曜美術社出版販売 1997年)p.24。
[2] 『尾形亀之助全集』(思潮社 1999年)p.210。
《2013年5月26日》
デモを(いわば元気そうに、快活に)歩いていながら、デモというのはそんなに心が忙しいわけではないので、いろんなことを考える。
たとえば、鬱屈するようなことがらというのは日々新しく現れてくるのであって、今日もそれなりに鬱屈するようなことはあった。それでもデモを歩き始め、最初はなかなか声が出ないのだが、今日の特別編成のドラム隊のリズムに心を委ねているとだんだん声が出るようになる。そうして、大きな声でシュプレッヒコールができるようになると少しだけ鬱屈した気分が晴れる。何かもっとできるような気がしてくるのである。これもデモの効用であると思いたい。
考えてみれば、いつもこんな感じだった。
集団のはらむ熱気を怖るるはいつよりのこと旗はなびかふ
岡井隆 [1]
集団が苦手なのである。今、少しずつそんな性癖を乗り越えつつある、とデモに参加しながらそう思いたいのである。
[1] 『現代歌人文庫 岡井隆歌集』(国文社 1997年)p.124。
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