かわたれどきの頁繰り

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【書評】ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳)『到来する共同体』(月曜社、2012/2015年) その2

2015年12月14日 | 読書

 

【続き】


 もうすこし、形而上学的なアガンベンの理路を辿っておこう。

  アリストテレスによると、あらゆる可能態は二つの様相に分節されるという。これら二つの様相のうち、いまの場合に決定的なのは、彼が《存在しないことの可 能性(dymamis mē einai)》、あるいは無能力(adynamia)と呼んでいるものである。なぜなら、なんであれかまわない存在がつねに可能態としての性格をもってい るというのが真実であるなら、しかしまた、それがあれやこれやの特殊的な行為をなす能力があるにすぎないのでもなければ、能力を欠いていて、単純に何もで きないのでもなく、いわんや、全能であってどんなものでも無差別になしうるというのではないことも、同様に確実であるからである。存在しないでいることが できる存在、自ら無能力であることができる存在こそ、本来、なんであれかまわない存在なのである。 (pp. 49-50)

  「なんであれかまわない存在」は、無能力なのではない。あくまで「無能力であることができる存在」なのである。「存在していること」、「能力があることは なにがしかの行為を対象として持っている。しかし、「存在しないでいること」、「無能力であることができること」は、そのような能力を持つということ自体 が対象になっている。アガンベンは、それをpotentia potentiae〔能力の能力〕と呼んだうえで、「能力でもあれば無能力でもありうるような能力のみが至上の能力である」(p. 51) とする。
  このような「なんであれかまわない存在」のアンチノミー、不条理性を、アガンベンはメルヴィルの『バートルビー』の主人公の存在に見るのである。バートル ビーは、法律事務所に雇われた有能な書記なのだが、ある時から《書かないでいることのほうを好む》、《しないでいることのほうを好む》(I would prefer not to)と語り、仕事を拒むようになる。

  完全な書記行為は書くことの能力からやってくるのではなく、無能力が自分自身へと向かい、このようにして(アリストテレスが能動知性と呼んでいる)純粋の 行為として自らに到来することからやってくる。このため、アラブの伝統のなかでは、能動知性はクァラム〔Qualam〕つまり「ペン」という名をもち、計り知れない可能態を居場所とする天使の姿をしているのである。バートルビー、すなわち、ただ書くことを止めず、しかしまた《書かないでいることのほうを好 む》筆生は、自らの書かないでいる能力以外のものは書かないこの天使の極端な像にほかならない。 (p. 53)

  このように「なんであれかまわない存在」の本質についての議論がさらにいくつかの章を通じてなされているが、それは「なんであれかまわない」ところの個 体、個物それ自体の本性の追求であって、「他なるもの」や「他者」との関係性については必ずしも明確ではない。そういう点では、「外」と題する3ページに 満たない章は、きわめて示唆的に個体とその外部との関係を論じている。

 なんであれかまわないものは純粋の個物がとる形象である。なんであれかまわない個物は自己同一性をもたず、ある概念との閧連で限定をほどこされることもないが、しかしまたたんに無限定なものでもない。むしろ、それはあるイデア、 すなわち、その可能性の総体との関連をつうじてのみ、限定をほどこされる。この〔イデアとの〕関連をつうじて、個物は――カントが言うように――可能なも のすべてと隣接することとなるのであり、こうして、そのomnimoda determinatio 〔あらゆる様態における限定〕をある特定の概念やなにがしかの現実的特性(赤いとか、イタリア人であるとか、共産主義者であるとかいった)に参与すること からではなく、もっぱらこのように〔可能なものすべてと〕隣接しているということをつうじて受けとるのである。それはあるひとつの全体に所属するが、この所属はなんらかの在的な条件によって表象されることはありえない。 (pp. 85-6)

  可能なものすべてと隣接するとはどういうことだろう。「なんであれかまわない」こと自体が、「純粋の外在性、純粋の露呈状態以外の何物でもない」形ですべてに開かれていることを意味しており、そのまま「外部のできごと」なのである。その状態で、外部と接触する敷居=閾(Grenze(境界))があるとい う。

  ここで重要なのは、《外〔fuori〕》という概念が、ヨーロッパの多くの言語において、《戸口で》を意味する語によって表現されているということである (ラテン語の「フォレス〔fores〕」は「家の戸口」、ギリシア語の「テュラテン〔thyrathen〕」は文字どおり《敷居で》を意味する)。はある特定の空間の向こう側にある別の空間ではない。そうではなくて、通路であり、その別の空間に出入りするための門扉である。一言でいうなら、その空間の顔、その空間のエイドス〔eidos〕なのだ。
 この意味では敷居=閾は限界と別のものではない。それは、こう言ってよければ、限界そのものの経験、外の内にあるということである。このようなエク-スタシス〔ek-stasis:脱我の状態に入りこむこと〕こそ、個々の単独が人類の空っぽの手から受けとる贈り物にほかならない。 (p. 87)

 「なんであれかまわない存在」は、外部である「他なるもの」の時空と交流する。
  こんなふうに、「なんであれかまわない」ことの哲学的な概念が次第に明確になってくる。これまでは、まだ形而上学的な議論にとどまっているのだが、終章に 近づくにつれて、アガンベンの論述は観念上の論理世界から現代の地上における「なんであれかまわない単独者の共同体」の議論へと降り立ってくる。
 20世紀に入って、資本主義的商品化、消費の時代が進展するにともなって人間の肉体は広告のメディアに組み込まれる。それはある意味で、何千年もの間、宗教的スティグマ、神学的モデルからの人間の肉体の開放でもあった。

いまや人間の肉体は、類的なものでもなければ個的なものでもなく、神を象ったものでもなければ動物の容姿をしたものでもなく、ほんとうになんであれかまわないものに転化するのだった。 (p. 64)

 この消費社会にはもはや社会階級は存在しないとアガンベンは主張する。つまり、「惑星的なプチ・ブルジョワジー〔una piccolo bourghesis planearia〕存在するだけ」(p. 80) とする。

  だが、このことはまさしくファシズムとナチズムもまたつかみ取っていたことであった。それどころか、旧来の社会的主体が取り戻しようもなく没落してしまっ たことを明確に見てとっていたことこそ、それらが乗りこえようもなく近代に刻印されていることを証し立てている。(厳密に政治的な観点から見た場合には、 ファシズムとナチズムは乗りこえられてはおらず、わたしたちはなおもそれらの印のもとで生きているのだ)。しかしまた、それらが代表していたのはなおもま がいものの人民的アイデンティティにしがみついた一国的なプチ・ブルジョワジーであって、その人民的アイデンティティに依拠したところでブルジョワ的偉大 さの夢が作動していたのだった。これにたいして、惑星的なプチ・ブルジョワジーはこれらの夢からはすでに解き放たれており、それと認知しうるどんな社会的 アイデンティティをも放棄しょうとするプロレタリアートの傾向を自分のものにしてしまっている。存在するものいっさいをプチ・ブルジョワは仕草そのものの なかで無化し、頑固としてその無化された状態に執着しようとしているように見える。彼は非本来的なものと真正でないものしか認めない。そして本来的な言葉 という観念までをも拒否している。 (pp. 80-1)

  一国の閾を超えてグローバルに(惑星的に)広がったプチ・ブルジョワの世界。プチ・ブルジョワジーは、ネグリ&ハートのマルチチュードにイメージと、ス ティグレールの貧しい象徴しか持たない大衆にイメージを重ね合わせた存在のように見える。「プチ・ブルジョワの生活のばかばかしさ」は、「絶対に非本来的 で無意味なものに転化してしまっているアイデンティティをなにがなんでも自分のものにしようとして譲らないでいる」(p. 82) ことに由来する。そのうえで、アガンベンは、プチ・ブルジョワジーの否定性を、次のように積極的な肯定性に転倒させようとする。

こ のことは、惑星的プチ・ブルジョワジーとはたぶん人類が自らの破壊に向かって歩んでいくさいにとる形態であろうということを意味している。だが、このこと はまた、それは人類史上未曾有の機会を表象しているということ、この機会はなんとしても見過ごすわけにはいかないということも意味している。なぜなら、も し人間たちがなおも自らの本来的なアイデンティティなるものをすでに非本来的でばかげたものになってしまった個性のかたちで探し求めるのではなく、この非 本来性をあるがままに受けいれるとしよう。そのような自らのあるがままのありようを自己同一性とか個人の特性とかにするのではなく、自己同一性なき単独 性、だれにも共通で絶対的に万人の目に曝された単独性にすることに成功するとしよう。すなわち、もし人問たちがあれやこれやの個々人の伝記的な自己同 一性のうちにあってそんなふうに存在しているのではなく、無条件にそんなふうに存在しているにすぎず、それぞれが独自の外面性と顔つきをもっているにすぎ ないというようなことがありうるとしよう。そのときには、人類は初めてもろもろの前提や主体をもたない共同体、もはや伝達不可能なものを知らないコミュニ ケーションへと入りこんでいくだろうからである。
  新しい惑星的な人類のなかでその生存を可能にするそれらの性格を選り分けること、メディアをつうじてなされる悪しき宣伝広告活動をただひとり外部性のみ伝 達する完全な外部性から切り離している、薄い隔壁を除去すること――これがわたしたちの世代に託された政治的任務である。 (pp. 83-4)

  かくして、プチ・ブルジョワは、グローバルな広がりをもつ惑星の各地に存在する「なんであれかまわない単独者」たちとなる。いわば、マルチチュードと呼ば れる人々のさまざまなアイデンティティを縮約したような存在として立ち現れる。いや、マルチチュードのそれぞれのアイデンティティを捨象したうえで、すべ てのアイデンティティに開かれている存在と言うべきか。つまり、なんであれかまわないのである。

  最終形態における資本主義は――こうドゥボールは、当時愚かにもなおざりにされていた商品の物神性にかんするマルクスの分析をさらに徹底させて論じている ――もろもろのイメージの莫大な蓄積というかたちで立ち現われる。そしてそこでは、かつては直接に生きられていたもののいっさいが表象へと遠ざけられてし まう。しかしまた、スペクタクルは単純にイメージの領域、あるいはわたしたちが今日メディアと呼んでいるものと合致するわけではない。それは《イメージに よって媒介された人格間の社会関係》であり、人間的社会性自体の収奪と疎外にほかならない。あるいは、碑文休の定式で表現するなら、《スペクタクルとはイ メージに転化するほどまでの蓄積段階に達した資本にほかならない》。しかし、まさにそれゆえに、スペクタクルは分離の純粋形態以外のものではない。 (pp. 99-100)

  現代資本主義を語る思想家は多いが、アガンベンは、1968年を象徴するようなギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』に言及する。現代資本主義の生産 全体を「変造」してしまったスペクタクルは、スティグレールのハイパーインダストリアル時代におけるハイパーシンクロニゼーションと同じように「いまや集 合的な知覚を操作し、社会的な記憶とコミュニケーションを独り占めにして、それらを単一のスペクタクル商品に変貌させてしまう」(p. 100) のである。巨大資本(マスコミ)によるハイパーシンクロニゼーションが「われわれ」の共有する象徴を奪ってしまうように、私たちの「〈共通のもの〉の収奪 の極端な形態がスペクタクルにほかならない」として、アガンベンは、資本主義が生産活動ばかりではなく、私たちの言語活動や人間のコミュニケーション的本 性をも阻害するという点において「マルクスの分析には補充が施されなければならない」(p. 101) と主張する。

し かし、このことはまた、スペクタクルにおいてはわたしたちの言語的本性そのものが反転したかたちでわたしたちのもとに立ち戻ってくるということをも言おう としている。このために(まさに共通善の可能性そのものが収奪されようとしているために)スペクタクルの暴力はこんなにも破壊的なのである。しかし、同じ 理由から、スペクタクルはなにかそれへの対抗策として使用することのできる積極的な可能性のようなものを内包してもいるのである。 (pp. 101-2)

  アガンベンは、スペクタクル社会における言語活動の疎外を、ユダヤ教の聖典『タルムード』の中の寓話を引用して《シェキナーの孤立》に喩える。「シェキ ナー」とは神の10の属性の一つで「神の顕現の最も完成された形態」である「認識と言葉」を意味する。スペクトル社会が言語(活動とコミュニケーション) を疎外することは、あたかも神の属性の中からシェキナーを分離し、孤立させてしまったことに相当しよう。そして、ある意味では、孤立することでそのほかの 神によって「啓示されるものから〔言語活動を〕を分離し、自立した存立を獲得してしまっている」(p. 103) ことになる。

〔……〕 スペクタクルの社会においては、このコミュニケーション的本質そのもの、この漠然とした一般的本質そのもの(すなわち言語活動)が他から切り離されて自立 した領域を形成するようになる。コミュニケーションを妨害しているのは、コミュニケーション能力そのものである。人間たちは人問たちをひとつに結びつけて いるものから切り離されるのだ。ジャーナリストとメディアクラットがこの人間の言語的本性からの疎外の新しい僧侶である。 (pp. 103-4)

  「この惑星のいたるところで伝統と信念、イデオロギーと宗教、アイデンティティと共同性を解体し空っぽ」になり、言語活動はそれらから切り離されて孤立し ているスペクトル社会は、きわめて逆説的なことだが、孤立しているからこそ純粋な「言語活動そのもの」、「人が語るという事実そのものを経験することが初 めて可能になった時代」(p. 100) なのである。

  それ〔いっさいを荒廃させてしまう言語活動の経験〕を徹底的に遂行して、啓示する者がそれの啓示する無のなかに隠蔽されたままとどまっていることをゆるさ ず、言語活動そのものを言語活動にもたらすことに成功する者たちだけが、もろもろの前提も国家ももたず、共通のものを無化し運命づける力が鎮静化され、 シェキナーが自らの孤立した状態の邪悪な乳を吸うことを止めるような共同体の最初の市民であるだろう。 (p. 105)

 私たちの言語にかかわる諸々が荒廃されてしまった中から、孤立した言語活動を純粋な単独者の言語活動として反転させて立ち上げたものが「なんであれかまわない単独者」としての共同体を形成するだろう。そうアガンベンは言うのである。
 なんであれかまわない単独者の政治とはいかなるものか、アガンベンはその答えを最終章で天安門事件からくみ上げる。

  じっさいにも、中国の一九八九年五月のデモにおいて最も衝撃的なのは、特定の要求内容が比較的不在であったことである(民主化と自由は衝突の実際的な対象 を構成するにはあまりにも漠然としていてつかみどころのないスローガンである。そして唯一の具体的な要求であつた胡耀邦の名誉回復は速やかに讓歩されてい た)。それだけに国家権力による反動の暴力は説明しがたいように見える。それでもたぶん、釣り合いがとれないように見えるのはあくまでも外見上のことで あって、中国の指導者たちは、彼らなりの観点になったところから、もろもろの論点をもっぱら民主主義と共産主義の対立というますます説得性を失いつつある 対立にもっていこうと腐心している西洋の傍観者たちよりもはるかに大きな明晰さをもって行動しているのだった。 (pp. 107-8)

  もうすでに現在の政治闘争は国家主権の奪取のようなものではなく、「国家と非国家(人類)のあいだの闘争、なんであれかまわない単独者たちと国家組織との 埋めることのない分離になる」(p. 108)という。なんであれかまわない単独者たちは国家に要求すべきアイデンティティを持たない。国家に承認させるべき所属のきずなももたない。

し かし、複数の単独者が寄り集まってアイデンティティなるものを要求することのない共同体をつくること、複数の人間が表象しうる所属の条件を(たんなる前提 のかたちにおいてであれ)もつことなく共に所有する〔co-appartenere〕こと――これこそは国家がどんな場合にも許容することのできないもの なのだ。というのも、国家の基礎をなしているのは――バディウが明らかにしたように――それが体現しているという社会的なきずなではなく、そのきずなの解 体であるからであって、これを国家は禁ずるのである。国家にとっては、重要なのは断じて単独者そのものではなく、あくまでもその単独者がなんであれかまわ ないがひとつのアイデンティティのうちに包含されていることであるにすぎない(しかしまた、そのなんであれかまわないもの自体がアイデンティティをもつことなく取り戻されること――これこそは国家が折り合いをつけるにいたる気にはなれない脅威なのだ)。 (p. 109)

  たぶん、アガンベンが結論付けようとしているのは、「なんであれかまわない単独者」たちの共同体こそ、反国家的存在そのもの、反権力的存在そのものだとい うことだろう。存在自体を国家(政治権力)が許容できない「到来する(すべき)共同体」なのであって、冒頭に引用した結語に述べられているようにそのよう な共同体を恐れる政治権力は、「遅かれ早かれ戦車」を送り出すのである。
 「なんであれかまわない単独者」たちの共同体が存在することが、すでに政治闘争そのものなのである。

 

 

 

[1] ジグムント・バウマン『《非常事態》を生きる ――金融危機後の社会学』(作品社、2012年)
[2] ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)
[3] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆』(NHK出版、2013年)
[4] ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』(新評論、2007年)
[5] アルフォンソ・リンギス(野谷啓二訳)『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版、2006年)
[6] アマルティア・セン(大門毅、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)
[7] ギー・ドゥボール(木下誠訳)『スペクタクルの社会』(ちくま学芸文庫、2003年)。

 


 


 

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【書評】ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳)『到来する共同体』(月曜社、2012/2015年) その1

2015年12月14日 | 読書

 

 到来する存在はなんであれかまわない存在〔essere qualunque〕である。 (p. 8)

 これが本書における文頭の文である。そして、様々な知見、論証を経めぐったのち、巻末に置かれた結論(ないしは宣言、または予言)は次のようなものである。

 所属そのもの、自らが言語活動のうちにあること自体を自分のものにしようとしており、このためにあらゆるアイデンティティ、あらゆる所属の条件を拒否する、なんであれかまわない単独者こそは、国家の主要な敵である。これらの単独者たちが彼らの共通の存在を平和裡に示威するところではどこでも天安門が存在することだろう。そして遅かれ早かれ戦車が姿を現わすだろう。 (pp. 110-11)

 そして、「訳者あとがき」には、岡田温司が著書『アガンベン読解』のなかで、この最後の言葉を取り上げたうえで「《われわれは少なからず戸惑いを覚えないではいられない》と率直な疑問が呈されている」と記されている。この「戸惑い」は何に由来するのだろう。『アガンベン読解』を読んでいないのでこれは単なる憶測に堕するかもしれないが、次のようなことではないだろうか。
 現代の私たちの望ましい(とアガンベンが考えた)存在のありようとして「なんであれかまわない単独者」たちの共同体こそ政治権力に正しく向き合うことのできる「われわれ」(スティグレールが言うところの)であればこそ、それを怖れる政治権力は天安門事件のように戦車によって弾圧を試みるだろう。いわば、天安門事件のような不幸な結末を予言するようなアガンベンの言葉に「戸惑い」を覚えたと思われる。
 しかし、アガンベンがここで強調したかったのは、「戦車が姿を現わす」と象徴的に表現するほどに、政治権力は「なんであれかまわない単独者」たちの共同行動を怖れているということにほかならない。権力が真に怖れない存在などに変革が期待できるはずもない。アガンベンの力点はその点にあると私は考える。

 『リキッド・モダン』(ジグムント・バウマン)[1] と呼ばれる流動的な時代において、『象徴の貧困』(ベルナール・スティグレール)[2] と名指されるほどに人々は共有すべき価値を喪失している。人々は、政治権力(資本)に対抗しうるとみなされてきた労働者(プロレタリアート)というアイデンティティもほぼ失ってしまった。そんな時代において、ネグリ&ハートは、マルチチュードという多数多様性を本質とする新しい階級による『反逆』[3] を語る。スティグレールは、私たちの差異をことごとく排除しようとする資本によるハイパーシンクロニゼーションに対抗するには集団的個体化によって形成された「私」と「われわれ」が新しい象徴を「創り出すinventer」ことが闘いであり、ラディカルな批判になると『愛するということ』で主張する [4]
 マルチチュードは、それ以上に縮減できない多数多様な人々、単純な共同性を見ることができないほどの多様性を特徴とする。こうした人々が形成する共同体に『何も共有していない者たちの共同体』(アルフォンソ・リンギス)[5] を重ね合わせることができよう。「何も共有していない者たちの共同体」は、スティグレールの豊かな象徴を共有する「われわれ」とは一見異なるように見えるが、それは深度の差に過ぎないだろう。スティグレールは、哲学や社会学、あるいは政治学や経済学が対象、ないしはフィールドとしてきた合理的言説によって維持される共同体を前提としているが、リンギスは国家や地域コミュニティを超えた人間そのもの、あるいは類としての「根源的なもの」を共有する共同体を想定している。二つの共同体は(理念的には)互いに包含すべき概念を有しているのである。

 アガンベンは、政治権力へ立ち向かうべき「到来する共同体」の一人ひとりの本質をさらに存在論的にいっそうラディカルに定義し、「なんであれかまわない単独者」たちをその共同体の成員として措定するのである。
 上に引用した巻頭と巻末の文の間で、著者は「なんであれかまわない」こととは何かを論じている。全体で19章のそれぞれの章は比較的短くまとめられ、時としてアフォリズムのようでさえあって、そのため私には理路が見えにくくなることもないではなかった。
 その19章の中で参照されるのは、アガンベンらしい該博な知識によって、ギリシア哲学からスコラ哲学、スピノザ、ニーチェ、ハイデガー、ベンヤミン、ギー・ドゥボールに及び、さらには旧約聖書やタルムード(キリスト教神学やユダヤ教神学)やアラブ学者の説、文学ではカフカ、メルヴィル、ヘルダーリン、ローベルト・ヴァルザー(私は読んだことがないスイスの作家)などである。
 冒頭の「到来する存在はなんであれかまわない存在である」は次のような文章に続く。

 スコラ学において超越概念が列挙されるとき(quodlibet ens est unum, verum, bonum seu perfectum:なんであれ存在するものは一であるか、真であるか、善であるか、それとも完全であるかのいずれかである〔カント『純粋理性批判』B114参照〕)、それぞれのうちにあっては思考されないままにとどまっていながらも、他のすべてのものの意味を条件づけている語は、quodlibetという形容詞である。このラテン語の形容詞は《なんであるかは関係がない》という意味に訳されるのが普通であるが、これはたしかに正確な訳である。だが形式においては、そのラテン語は厳密には正反対のことを言っている。quodlibet ensと/いうのは《なんであるかは関係がない存在》ではなくて、《なんであれ関係があるような存在》のことである。すなわち、そこにはすでにつねに望ましい(libet)ということへの送付が含意されているのであって、望ましい存在は願望と本源的な関係を有しているのである。 (p. 8)

 じつは、私の「戸惑い」は冒頭の「なんであれかまわない存在」というフレーズそのものにあった。「なんであれかまわない」という言葉に、主体の放棄や絶望のニュアンスを感じたのだったが、「なんであれ関係があるような」と等価な「なんであるかは関係がない」という意味で「なんであれかまわない」のであれば、そこに無限定の可能性を想定できそうで、その「戸惑い」はすぐに解消した。(それにしても形而上学である。若いころ、形而上学的な議論を軽蔑し、軽視する(唯物論の立場から)ような風潮のなかで生きてきたので、あまり真剣に形而上学を読んだり学んだりしなかったのである。実験物理学という職業がそれに拍車をかけて、いま本を読みながら苦しんでいるのである。)
 さて、「なんであれかまわない」ということは「なんであってもいい」ということではない。そうでなくてはならないと思うのだが、それではいっそう概念の具体性が薄れてしまう。そうした疑念に応えるように、「なんであれかまわない存在」とはどういう存在か、という論述が本書の大部をなしている。

じっさいにも、ここで問題になっている〈なんであれかまわないもの〉は、個物ないし単独の存在をある共通の特性(たとえば、赤いものであるとか、フランス人であるとか、ムスリムであるとかといったような概念)にたいして無関心なかたちで受けとるわけではなく、それがそのように存在しているままに〔ありのままに〕受けとるにすぎない。このことによって、個物ないし単独の存在は認識に個別的なものの言表不可能性と普遍的なものの可知性のいずれかを選択することを余儀なくさせる偽りのディレンマから解き放たれる。可知的なものとは、ゲルソニデスのみごとな表現によれば、普遍的なものでもなければ、ある系のなかに包含された個別的なものでもなく、《それがどんなものであれ単独の存在であるかぎりでの単独の存在》であるからである。 (p. 9)
〔訳注〕――ゲルソニデスは本名レヴィ・ベン-ゲルション(Gersonides; Levi ben-Gershon, 1288-1344)。アリストテレス哲学とユダヤ神学の批判的総合をくわだてた中世フランスの哲学者・聖書解釈学者で、数学者・自然学者でもあった。主著はMilamot Adonai (『主の戦い』一三二九年)。 (p. 11)

愛は〔事物を品質づける〕述語のすべてを余すところなく具えた事物を欲する。事物がそのように存在するままに存在することを欲する。愛が何ものかを欲するのは、それがそのように存在するままに存在するかぎりにおいてのことである。これが愛に特有のフェティシズムである。こうして、なんであれかまわない単独の存在(〈愛する価値のあるもの〉)は、けっして何ものか、あれやこれやの性質ないし本質を知っているわけではなく、あくまでも知る可能性があるということを知っているにすぎない。 (pp. 10-1)

 「なんであれかまわない存在」の具体的イメージとして最初に参照されるのは、キリスト教(カソリック)世界で想定されているリンボ(孩所、辺獄)で生きる死せる赤ん坊である。洗礼を受けずに死んだ幼児は原罪以外の罪を持たないのだが、「もっぱら何ものかが奪い去られてしまっているという罰、すなわち、いつまで経っても神のヴィジョンをもつことができないでいるという罰」(p. 12) のみを受けることになる。しかし、それ以外にどんな苦しみもない。彼らは神に見捨てられたのだが、彼ら自身も神を見失って(忘れて)いる。いわば、彼らは道を失っているのだが、生まれたそのまま(死者だが)に自然に孩所で生きることになる。「彼らはいつまで経っても売り捌き先を見つけられない幸福感で満たされている」(p. 14) のである。
 また、ヴァルザーやカフカの小説も参照される。ヴァルザー作品の登場人物たちは、自分が取るに足らない人間であることを自慢するのだが、それは「なによりも彼らが救済にたいして中立の立場をとっていることの証しであり、救済の観念そのものにたいしてこれまで申し立てられてきた最もラディカルな異議」(p. 14) である。

 処刑するはずであった機械が壊れたために生き延びて解放されたカフ力の『流刑地にて』の罪人のように、彼らは罪と裁きの世界に背を向けたまま放置されている。彼らの額に降り注ぐ光は、最後の審判の日に続いてやってくる夜明けの――取り返しのつかない――—光である。だが、最後の日のあとに地上で始まる生は、単純に人間の生なのだ。 (p. 15)

 神を忘れてしまった者、神が忘れてしまった者、救済されるべきものを何一つもたない者に対しては、「そうした生にたいしてはキリスト教的オイコノミア〔統治〕の重厚な神学機械も難破せざるをえない」(p. 14) のである。彼らはすでに(キリスト教社会にあっては)「なんであれかまわない存在」となっている。 
 アガンベンは、「なんであれかまわない存在」は個別的な存在であるとともに、普遍的な存在でもあると考えている。

 普遍的なものと個別的なもののアンチノミーを逃れているひとつの概念がずっと前からわたしたちによく知られていた。見本〔esempio〕という概念がそれである。見本がその力を発揮するどんな領域においても、見本の特徴をなしているのは、それが同一のジャンルのすべてのケースに妥当するものであると同時にそれ自体それらのケースのなかに含まれているという事実である。見本は、それ自体が個物のなかのひとつの個物でありながら、他の個物のそれぞれを代表する立場にあって、すべてに妥当する。 (p. 17)

赤い存在ではなくて赤いと名指される存在、ヤコブという存在ではなくてヤコブと名指される存在が、見本を定義する。 (p. 18)

それは〈最も共通のもの〉であって、およそあらゆる現実の共通性を切断してしまうのだ。ここから、なんであれかまわない存在の無力な汎妥当性が出てくる。ただし、それを無感動と取り違えてもならないし、ごたまぜ状態ないし唯々諾々と取り違えてもならない。これらの純粋の単独者は、あくまでも見本の空虚な空間のなかで、なんらの共通の特性、なんらの自己同一性によっても結びつけられることがないままに交信しあう。それらの単独者は所属そのもの、記号∊を自らのものにするためのあらゆる自己同一性を剝奪されてしまっている。トリックスタ-ないし無為の徒、助手ないしカートゥーンとして、彼らは到来する共同体の見本にほかならない。 (p. 19)

 なんであれかまわないものであることは個物ないし単独の存在を知るための基本要素であって、これがなくては存在も個体化も考えることができない」(p. 27) とアガンベンは述べたうえで、スコラ哲学における個体化を考察する。ドゥンス・スコトゥスは、共通の性質があらかじめ実在していて、それに《究極にあるもの》、「このもの性」が付けくわえられることで個体化が成されるとして、共通の性質と「このもの性」に本質的な差異はないと考えるのだが、それでは個物のなんであれかまわないことに言及することができない。そこで、アガンベンはスピノザを参照する。

しかしまた(『エチカ』第2/部定理37によれば)共通なものはけっして個物の本質を構成しない。ここで決定的なのは、非本来的な共通性という観念、なんら本質にはかかわらない一致という観念である。もろもろの個物が延長という属性において生起しこれをつうじて交信しあうことはそれらを本質〔essentia〕において結合するのではなくてそれらを現実存在〔existentia〕という形態において散種することとなるのである
 もろもろの個物にたいする共通の性質の無関心ではなくて、共通のものと独自のもの、類と種、本質と偶有的なものの無差別が、なんであれかまわないものを構成するなんであれかまわないものとは、すべての特性を具えながらも、そのうちのどれひとつとして差異を構成することのないもののことである。もろもろの特性にたいして無差別であることが、もろもろの個物を個物として識別させ散種させるのでありそれらを愛する価値のあるもの(quodlibetなもの)にするのである。 (pp. 29-30)

 こうして個別的なものと共通なものは無差別なものとなって、可能体から現実体へ、あるいは現実体から可能体へと「役割を交換しあい、相手のなかに侵入していく」ことになる。このような移行のプロセスで「産み出される存在がなんであれかまわない存在」(p. 32) なのである。
 中世の論理学の言葉であるマネリエス〔maneries; maniera〕は、個物の存在に関係するのだが、その語源や意味が明確にされていない。いくつかの参照の後、アガンベンはマネリエスの語義を次のように結論する。

すなわち、マネリエスは類でも個でもない。それはひとつの見本、つまりはなんであれかまわない個物なのだ。だとすれば、たぶん"maneries"という術語はmanere 〔とどまりつづける〕から派生したものでもなければ(存在の住処そのもの、プロティノスの言うモネー〔monē,とどまるもの〕を表現するさいには、中世の人々はmanentiaとかmansioと言っていた)、(近代の文献学者たちがそう想定したがっているように)manus 〔手〕から派生したものでもなく、 manare 〔発する〕から派生したものなのだろう。すなわち、発生状態にある存在を指しているのだろう。これは、西洋の存在論を支配している区分法にしたがって言うなら、本質でもなければ現実存在〔実存〕でもなく、発生の様式である。あれやこれやの様式において存在している存在ではなく、その存在の様式そのものであるような存在、それゆえ、単一的で無差別ではないものでありつづけながらも、数多的ですべてに妥当するような存在である。 (pp. 40-1)

自分自身の下にとどまりつづけているのではない存在。隠れた本質として自らに前提されているのではない存在、偶然や運命がそのあとで品質づけの責め苦へと追いやるのではなくて、それらの品質づけのなかで自らを曝す存在。余すところなくあるがままの姿をしている存在。そのような存在は偶然的でも必然的でもなく、いわば、自分自身の様式から不断に産み出されるのである。 (p. 41)

 だが、発生の様式はなんであれかまわない個物の住まう場所でもある。そして、その個体化の原理でもある。じっさいにも、自分自身の様式にほかならない存在にとっては、このような発生の様式はその存在に本来具わっていてそれを本質として規定し同定するようなものではなく、むしろ、その存在にとって非本来的なものである。しかしまた、この非本来的なものがそれの唯一無二の存在と見なされて自分のものにされるということが、それを見本的な存在にしているのである。(pp. 42-3)

 「なんであれかまわない存在」は、その存在自体が持つ様々なアイデンティティが何であれかまわないのである。それは、例えばアマルティア・センが『アイデンティティと暴力』[6] において、個人には多様なアイデンティティがあり、そのどれをもその主体から外すことはできないと主張したことと隔たりがあるように見える。
 しかし、センは、一人の人間を一つのアイデンティティに押し込めてしまうことが暴力を生み出す機制を明らかにしようとしたのであって、いわば、きわめて具体的、現実的な社会そのものに沿った議論をしているのである。形而上学的な議論の段階では、アガンベンとセンの主張を比較するのはまだ早いようである。

 

[1] ジグムント・バウマン『《非常事態》を生きる ――金融危機後の社会学』(作品社、2012年)
[2] ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)
[3] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆』(NHK出版、2013年)
[4] ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』(新評論、2007年)
[5] アルフォンソ・リンギス(野谷啓二訳)『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版、2006年)
[6] アマルティア・セン(大門毅、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)
[7] ギー・ドゥボール(木下誠訳)『スペクタクルの社会』(ちくま学芸文庫、2003年)。

【続く】



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