かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『生誕100年 小山田二郎』展 府中市美術館

2015年01月30日 | 展覧会

【2015年1月30日】

 1914年生れの小山田二郎の生誕100年の回顧展である。あまり見る機会の多くなかった小山田の絵を見に府中市まで出かけた。府中市は初めての街で、お決まりの街歩きを企てていたが、ホテルの窓から見る東京は朝から雪降りで、どうしたものか判断に迷った。
 雪のため、いくぶん遅れが出ているJR山手線、京王線と乗り継いで府中に向かう。雪はベタ雪なのに、街は真っ白になっている。結局、地図まで調べて計画していた府中の街歩きを諦めて、府中市美術館に直行した。

 小山田二郎は、シュールレアリズム系の画家だとばかり思っていたので、期待半分の美術展である。半分というのは、シュールレアリズムが描き出すイメージはしばしば私の感性というか想世界からまるっきり外れて、感覚的な手がかりがまったく見つからないことが時々あるためだ。

 雪のせいか、観覧者も少なくて美術館はひっそりとしている。受付の女性に、「今日は小学校の美術教室がありますので、騒がしいかもしれません」という意味のことを伝えられた。会場の中で二度ほど40人ほどの小学生の集団とすれ違ったが、ほとんどの時間は会場を見渡す限り、2、3人の観覧者が見えるだけだった。
 周りに誰もいない静寂な場所で、小山田二郎の絵を次々に見ていくのは、正直言って、とても疲れる行いだった。小山田二郎の絵が発散する情念のエネルギーが直接私だけに向かってくるようで、多くの観覧者のざわめきにまぎれるということがない。


【左】《顔》1940年代後期、キャンヴァス・油彩、53.1×45.3cm、府中市美術館 (図録、p. 12)。
【中】《娘》1940年代後期、キャンヴァス・油彩、90.1×72.4cm、府中市美術館 (図録、p. 14)。
【右】《顔》1950年、紙・水彩、41.5×29.0cm、府中市美術館 (図録、p. 18)。

 最初期の具象的な人物画、シュールレアリズムやキュビズムに影響を受けたような《娘》や《顔》を見て、前日見たジュール・パスキンのように初期の人物の描き方から最盛期の人物像に至るような変遷を想像したりしたのだが、結果はまったく異なっていた。この3点の人物像からは想像できない展開が待っていたのだった。


《月と子供》19537年、キャンヴァス・油彩、145.5×97.0cm
 (図録、p. 28)。

 三角形や矩形で人体を構成するという作品はかなりの数があった。《月と子供》はそのような絵を代表する作品の一つだと思うが、私が気になったのは月の位置である。
 子供の膝のあたりの高さに位置する月は、砂漠のような地平に立つ子供を見上げるように描けば、何の不思議もない。問題は、頭部の脇に空中に浮かぶように描かれている山岳である。
 空間の多重構成はよくあることだが、異なった空間を示すのはその山だけだというのは不思議だ。子供が辿る時間を空間に託したのだろうかとも思ったが、よく分らない。


【上】《ピエタ》1955年、キャンヴァス・油彩、80.3×116.2cm、
個人蔵(府中市美術館寄託) (図録、p. 39)。

【下】《愛》1956年、キャンヴァス・油彩、130.3×193.9cm、
愛知県美術館 (図録、p. 41)。


《母》1956年、キャンヴァス・油彩、130.3×162.2cm (図録、p. 40)。

 聖書に題材をとった幾つかの絵は会場の中でとくに(私の)目を惹いた。《ピエタ》は、新約聖書の中では最重要なシーンである。しかし、ここではキリストの死は崇高な死としては描かれていない。私にはそう思える。無惨な死を死ぬ我が子を抱きあげるマリアに見えるのは母という存在の悲惨である。
 《愛》という作品は、さらに象徴的である。無数の人を包み込むであろうマリアの愛は、じっさいは無数の死者たちを包含することで成り立っている。マリアから母親へと一般化した《母》もまた、背後に多数の死者が配置されていて、経時的に死者たちを背負い込んでいることを示している。

 小林真結は、図録 [1] に「キーワードから見る主要作品解説」という論考を寄せていて、小山田二郎の次のような言葉を引用して、《ピエタ》や《愛》は「戦時下の渾沌と恐怖をまざまざと表わし」、「戦時下の人間存在に加えられた迫害の記憶を描き出す、戦後リアリズムの一断面を示している」 (p. 179) と解説している。

『愛』とは、私の内部の覚書である。戦争の惨禍が暗き日の傷口を開いて、黒い太陽にさらしていた時、突如脳裏を掠める忌まわしきことども、恐怖、饑餓、受身に於けるささやかな祈の混淆した重圧。そして人間の条件が、1枚ずつはぎとられて行ったあの日の覚書である。 (小山田二郎「作品と作家の言葉」『美術手帖』101号、1956年7月、p. 70)


【上】《盲人達》1954年、キャンヴァス・油彩、51.7×64.0cm (図録、p. 52)。
【下】《亡者達》1956年、キャンヴァス・油彩、72.7×116.7cm (図録、p. 54)。

 《盲人達》と《亡者達》は、同じ構図で、主題も同じと考えていいと思う。盲人を亡者と同一視するのは盲人を差別するかのようだが、悲しさや無惨さ、苦しみをおのれ自信の中に見る画家は、我が身の存在そのものを亡者や盲人に仮託しているのだと思う。盲人や亡者としての「存在」へのシンパシーが深いのだ。私はそう受け取った。

 小山田の絵の中では《盲人達》と《亡者達》は、他者への視線を向けた比較的穏やかな(小山田の絵には似つかわしくない表現だが、あくまで「比較的に」である)絵だと思う。
 しかし、図録の巻頭にねじめ正一が一文を寄せていて、父親が月賦で買った《盲人達》にまつわるエピソードを書いている。父親の亡くなった後、認知症の母が、母親には刺激が強いだろうと息子が片付けてしまった「小山田さんの絵」をとても見たがるのだという。「私は驚く。母のエネルギーに驚く。認知症になっても「盲人達」の絵を平気で見ることのできる母の命には驚かされる。母はまだ生きる。母はまだ生きる。………」 (p. 7) と詩人は綴っている。
 小山田二郎の絵は、どんなに穏やかであっても、それを見るには多大なエネルギーが必要だということだ。


【上】《鳥女》1960年頃、キャンヴァス・油彩、161.0×130.0cm (図録、p. 61)。
【下】《いこひ》1968年、キャンヴァス・油彩、32.2×41.1cm (図録、p. 119)。

 《鳥女》という作品はかなりの数が描かれている。一連の《鳥女》のシリーズを、「人間でありながら鳥でもあるこの生き物は、小山田が彼自身の内部から掬いとった悪魔のイメージでもあり、人間そのものに巣くう矛盾の表現」 (p. 180) だと小林真結は評している。
 ほとんどの《鳥女》という作品は、私にとってはすんなりと受容できるような容易な絵ではない。画家の激しく厳しい自己認識は、否定的であれ何であれ自己受容(許容ではない)の形として絵画化されているはずだと思うのだが、どうにもそのプロセスがイメージできないのだ。

 そのシリーズの中で、少しばかり近づけそうな気分がした作品が上の《鳥女》である。逞しい肉体と存在感のある両手が特徴だ。他の《鳥女》の手は、文字通り鳥の手のように細いのだが、この絵の《鳥女》の手は、はるかに人間の手に近い。そのせいか、この《鳥女》の実在感が私の受容範囲に引っかかったのかもしれない。

 《鳥女》は、画家の自己イメージであり、さらには人間存在そのもののイメージを仮託したものだろう。だとすれば、自己嫌悪のように描くこともあれば、他者の存在のあり方として描くこともある。後の場合が、《いこひ》という作品であろう。
 家族のような二人が腰掛けて休らう様子は、色調も鳥女の姿もいくぶん他者を慈しむ視線によって描かれているように感じられる。この絵によって、鳥女は自分自身でもあり、家族でもあり、そしておそらくは他者一般となって、人間そのものへと昇華したのではないかと想像する。


《夜の塔》1954年頃、紙・水彩、34.0×25.7cm (図録、p. 90)。

 正直に言おう。小山田二郎のたくさんの展示作品の中で、どれか一品と問われれば、問題なく《夜の塔》である。理由は簡単である。家に飾ることが可能であれば、と考えたのである。ねじめ正一ではないが、他の作品では、その絵によって日々喚起されるエネルギーの消耗に私は耐えられないのではないかと思う。
 《夜の塔》は、実在か心象風景は定かではないが、あきらかに小山田作品の中では例外的な風景画である。例外的な絵が一番のお気に入りというのは、なにか絵画受容としては問題があるように思うが、こればかりはどうにもならない。


《納骨堂略図》1964年、キャンヴァス・油彩、72.3×90.0cm、栃木県立美術館
 (図録、p. 112)

 《夜の塔》を一番のお気に入りだとしたのだが、もっとも足止めされて眺め入ったのは《納骨堂略図》である。黒い物全体が納骨堂なのか、その一部が納骨堂なのかはよくわからないが、全体を納骨堂と考えることにする。
 真っ赤に燃え上がるような背景も異常だが、右下の地面近くで火が燃え上がっている。それはあたかも死者を焼く炎のように見える。左上の穴(窓)からは炎が吹き上がっている。あたかも納骨堂の内部は燃えさかっていて、炎が隙間から吹き出しているかのようだ。
 納骨堂としてはありえない情景なのだ。骨になり、灰になった死者たちは、いったい何を燃やし続けているのか。考え込んで、考え込んで、結局分からない。怨念のようなものか、などとつまらないことしか思い浮かばない自分に嫌気がさして《納骨堂略図》を後にした。


《火のモニュメント》1976年、キャンヴァス・油彩、130.3×162.1cm (図録、p. 138)。

 《火のモニュメント》の前では、少しばかり不謹慎なことを考えた。『BLEACH』という漫画がある。私はもっぱらアニメで見ているのだが、そこにメノスという霊体が登場するのだが、《火のモニュメント》の細身で長躯の人物像にそっくりなのである。
 ジャコメッティの彫刻の人物像を思い出せば良さそうなものを、先に思い出したのは、堕ちてしまった人間の魂が救われないままに人間を襲う霊体となったメノスという怪物なのである。しかし、画家の主情は、ジャコメッティよりも、人間の悲惨も辛苦も体現しているようなメノスに近いのではないかと、これは決して負け惜しみではなく、そう思うのである。


《舞踏》1982年、キャンヴァス・油彩、130.0×162.0cm (図録、p. 142)。

 最後に、《舞踏》をあげておく。舞踏も長い期間にわたって小山田の主題だったようだ。踊る人の下半身が大きく開いているというのが、初期の作品から後期のこの作品まで共通している特徴である。初期の作品の踊り手の足の開き具合には、どこか縄文時代の遮光土偶を思わせる作品もある。
 この《舞踏》作品は、小山田作品の中では数少ない明るい色調である。踊り手は様式化されているように見え、小林真結によれば、「小山田にとって、《舞踏》は過去の記憶を呼び起こすためのテーマでもあり、色彩と形態の実験場でもあった」 (p. 179) という。小山田にとって《舞踏》を描く時間は、人間存在がかき立てるおどろおどろしい情念から離れて、造形と色彩へ思いを傾注した希有な時間だったことを意味しているのではないか。

 小山田二郎の絵を眺め続けながら会場を行きつ戻りつしているとき、小学生の集団のざわめきで鑑賞が中断されたが、それは救いであった。小学生のざわめきが聞こえる間に十分に息継ぎをして、気を取り直して次の絵に進むことができた。小山田二郎の絵を見るのは、緊張を強いられ、エネルギーを消耗する感じが強かったのである。

 

 [1] 『生誕100年 小山田二郎』図録(以下、『図録』)(府中市美術館、2014年)。

 


『パスキン展――エコール・ド・パリの貴公子』 パナソニック汐留ミュージアム

2015年01月30日 | 鑑賞

【2015年1月29日】

 ジュール・パスキンは、初見の画家である。図録 [1] に掲載されているローズマリー・ナポリターノの「パスキン、モンパルナスからモンマルトルへ」という評伝にしたがっておさらいをしておく(以下、引用のページは図録の掲載ページである)。

 1885年にブルガリアで裕福なユダヤ人のブルジョワ家庭で生まれたパスキンは、ウイーンで中等教育を受けた後、ミュンヘンに移り、風刺画家として評価を受ける。
 20歳の時、パリに移る。「20世紀初頭の芸術の中心パリには、シャガールやスーティン、モディリアーニ、キスリングに続いて、フジタ(藤田嗣治)もやってきた」 (p. 9)。足繁く通ったパリの美術館では「18世紀の放埒な作品」を好み、頻繁に引っ越しを繰り返し、ノルマンディーやベルギー、遠くチュニジアまで旅をした。
 1914年、第1次世界大戦が始まるとニューヨークに移り、滞米中にルイジアナ、ニューオーリンズ、フロリダ、キューバなどを旅した。大戦終了後の1920年にパリに戻った。
 パリでは、毎晩のように友人たちとのパーティーや夜遊びに暮れ、南仏やチュニジアへも出かけた。しかし、「悩ましく、満たされることのない、憂鬱な存在。亡命者だったパスキンは、自らユダヤ人であることを強く主張しないが、反ユダヤ主義には深く傷ついている様子だった。アルコールや麻薬、そしてセックスという悪魔の生け贄になった」 (p. 11)
 1930年6月、ジュール・パスキンは、モンマルトルのアトリエで縊死した。享年45歳であった。「三つの丘のプリンス、さすらいのユダヤ人、ドナウのアメリカ人、千夜一夜物語のプリンス、放蕩息子―作家や美術批評家の友人たちにそんな風に評されたパスキンは、モンパルナスの芸術共同体の中で特別な地位を与えられた」 (p. 9) のだという。

 私は展覧会会場で絵画のタイトル以外はほとんど文字を読まない。それで、美術展ではパスキンの評伝などまったく知らないままに彼の絵画を見たのである。あらかじめいろいろなことを知っておけば、より絵画を楽しめ、理解できるかも知れないのだが、思い込みや先入観で絵を見ることを怖れているのである。ありていに言えば、自分の感受力に自信がないのである。何の知識もなく絵を見て、何も感じないのならそのまま諦めていいと思っている。


【左】《ミュンヘンの少女》1903年、鉛筆・紙、35.3×23cm、パリ市立近代美術館 (図録、p. 83)。
【中】《女の肖像》1903年、木炭・サンギーヌ・紙、40×27cm、個人蔵、パリ(図録、p. 84)。
【右】《チョコレート》1907年、水彩・紙、31×21cm、個人蔵、パリ(図録、p. 88)。

 展示は、ミュンヘン時代の初期の作品から始まる。1番目の絵は《ミュンヘンの少女》で、きっちりと丁寧に仕上げられた素描はとてもリアルな少女像である。
 ところが2番目の展示は《女の肖像》である。きっちりとしたデッサンには違いないが、どこか女性の醸し出す雰囲気、周囲の空気感まで描こうとしている印象を受ける絵である。
 さらに、2枚の絵をおいて《チョコレート》が現われる。風刺画や挿絵をたくさん描いたパスキンがこのような絵を描くことは不思議でも何でもないが、立て続けにとても印象の異なる三つの作品を見せられて、なにかわくわくする感じがしたのだ。女性の描き方、とらえ方における感性のバンド(帯域)がとても広いのではないかと期待感が湧いたのである。


《キューバでの集い》1915/17年、油彩・カンヴァス、92×73cm、
個人蔵 (図録、p. 41)。

 肖像画や裸婦像をいくつか見ながら歩を進めると、急に画調の変わった《キューバでの集い》が現われる。色調は、前後の絵とそれほど変わらないが、キュビズム風の人物の描き方に強い印象を受けたのである。
 会場に入って最初に受けた女性像における感性の広さに加え、キュビズムまで取り込んだ造形性がどのような展開を見せるのか。そんな期待をしたのだが、残念ながら、キュビズムのフレーバーが漂う絵は《キューバでの集い》だけで終ってしまった。


【左】《ジャネット》1923/25年、油彩・カンヴァス、73.2×60.3cm、
カンブレー美術館(ルーベ市立美術館に寄託) (図録、p. 43)。

【右】《ヴィーナスの後ろ姿》1925/28年、油彩・カンヴァス、81×65cm、
パリ市立美術館 (図録、p. 46)。

 パスキンの絵で圧倒的に多い主題は、女性像である。その中で、《ジャネット》と《ヴィーナスの後ろ姿》は、比較的明瞭な輪郭で描かれ、力強さというか存在感を感じさせる女性像である。とくに、《ヴィーナスの後ろ姿》の迫力ある女性の肢体に目を奪われた。


【左】《椅子にもたれる少女》1928年、油彩・カンヴァス、81×65cm、個人蔵、パリ (図録、p. 62)。
【右】《テーブルのリュシーの肖像》1928年、油彩・カンヴァス、80×58cm、個人蔵 (図録、p. 63)。


《幼い女優》1927年、油彩・カンヴァス、73×92cm、個人蔵、パリ (図録、p. 60)。

 《椅子にもたれる少女》と《テーブルのリュシーの肖像》は、私にとってはかなり好もしい絵である。パスキンの女性像の中では比較的女性の表情に力点が置かれているように見える。若い頃にきっちりと描いた《ミュンヘンの少女》に表現された感性を受け継ぎ、成長させたように思われるのである。
 そのうえで、人物の衣装、テーブル、背景などは独特な空気感を帯びるような描き方なのである。初っぱなに見た《ミュンヘンの少女》と《女の肖像》が異なった感性によるのではないかと思ったのだったが、ここでは完全に統合された感性になっている。これは、パスキンという個性に属することで当然のことなのだが、初めの印象が印象だっただけにそんな思いがしたのだ。

 《幼い女優》も、《テーブルのリュシーの肖像》や《椅子にもたれる少女》と同じような印象を受ける絵だが、色彩がもう少し鮮明な感じになっていっそう好もしい。


《二人のジプシー女》1929年、油彩・カンヴァス、92×73cm、
ジャスティ・アストラップ、UK (図録、p. 73)。

 《二人のジプシー女》の解説では、「世界中を放浪し続けたパスキン」は「彷徨えるユダヤ人」と呼ばれたという。漂白の人生を送ったパスキンはジプシー(ロマ)と呼ばれる「流浪の民に自らの資質を重ね合わせ、共感とエキゾチシズムとを託している」(p. 72) ということである。
 私には到底そこまでは読み取れないが、パスキンにとっては晩年に近いこの作品は、白色に近い部分が発色して、かすかに輝いているような印象が強い。この色彩感覚はパスキン独特のものにちがいない。そう思える。


《三人の裸婦》1930年、油彩・カンヴァス、81×100cm、北海道立近代美術館 (図録、p. 81)。

 《三人の裸婦》は最晩年(といっても45歳だが)、自死の年の作品である。《二人のジプシー女》で受けたパスキン独特の色感はさらに強調されている。「真珠母色の淡い色彩が生む朦朧とした空気」 (p. 81) だと図録で評されている。
 18歳の時に描いた《女の肖像》の空気感は、《三人の裸婦》として完成したのである。

 パスキン最晩年の作品を見終えれば美術展は終りであるが、パスキンの絵画のラインから少しならず外れたような印象の絵が気にかかっていた。《ラザロと悪徳金持ち》という絵である。


《ラザロと悪徳金持ち》1923年、インク・紙、50×65cm、個人蔵、パリ (図録、p. 94)。

 《ラザロと悪徳金持ち》は、風刺画や挿絵を特異としたパスキンにとってはとくに異常な作品と言うわけにはいかないだろうが、人物をここまでデフォルメした作品は展示中ではこの1品だけだった。
 何よりも気になったのは、デフォルメの方向がいつかどこかで見たように思ったことだ。アール・ブリュット、あるいはアウトサイダー・アート、または素朴派とカテゴライズされる分野の絵のなかに雰囲気がよく似ているものがあったように思ったのである。


【左】ルイ・ステー《身振りをする6人》1937年、インク・紙、44.0×58.0cm、[2]。
【右】木元博俊《人の身体27》1989~2008年、色鉛筆、ボールペン・紙、177×230cm [3]。

 帰宅してから画集を探して見たが、もちろん《ラザロと悪徳金持ち》にそっくりな絵が見つかるわけがない。たとえば、ルイ・ステーの《身振りをする6人》や木元博俊の《人の身体27》が描く人物造形が、強いて言えば、似た印象を与えると言えそうではある。
 パスキンは、その他の絵に描いたようなリアルな人物の肉体からデフォルメの結果として《ラザロと悪徳金持ち》に至る。いっぽう、アール・ブリュットの画家たちは、(おそらくは)直接的に絵に近い人体把握をしていて、(これも、おそらくは)絵に描こうとする際の具象化作用の結果として《身振りをする6人》や《人の身体27》に至っていると考えることが出来よう。
 パスキンとアール・ブリュットの画家たちの出発点はずっと離れており、変容のベクトルは逆向きだが、いずれどんどん近づき、ついには出会って同じ想空間で切り結ぶようになるのではないか。それはprobableではないかも知れないが、possibleであろう。その可能性こそが芸術の豊かな可能性なのだ。そんな想像をした。

 

[1] 『パスキン展』図録(以下、『図録』)(ホワイトインターナショナル、2014年)。
[2]『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』(世田谷美術館、2013年) p. 89。
[3] 『アール・ブリュット・ジャポネ』(現代企画室、2011年) p. 52。