かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

安冨歩 『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』 (明石書店、2012年)

2012年10月04日 | 読書

             

 東大教授という肩書きだったので、もう少し硬質な文章を想像していたが、じつに明解かつ平明で、快適に読み進められる一冊だった。文系と理系は違うかもしれないが、一般に職業的に論文執筆を行なう人の場合、文章が冗長であることを極端に嫌うし、論理的曖昧さを避けるため概念規定の明確な言葉(つまり、定義が厳密な専門用語)を使うことが勧められている(はずだ)。それは、専門家同士の正確かつ迅速なコミュニケーションのためなのである。ときとして、単に衒学的な見せかけのために新しい専門用語をちりばめる研究者(学者)もいないわけではないが、たいがいそういう人は専門用語を流行語のように扱うことになってしまい、厳密な概念理解に達していないことが多く、その結果、不幸なことに研究者の評価の判断材料にされてしまうことになる。
 もちろん本書は学術論文ではないので、誰にでも理解できるように意図して書かれていて、私としてはたいへん助かる。

 本書は、サブタイトルにあるごとく、東大の先生方の「傍観者の論理・欺瞞の言語」を鋭く批判したもので、東京電力福島第一原子力発電所の未曾有の原発事故をめぐる欺瞞的な言説に対する憤りを契機としている。
 ここで批判されている「東大話法」は、筆者が強調されているように、東大の先生だけが駆使しているわけではない。社会一般の欺瞞的な言説の特徴である。その欺瞞性が最も犯罪的となるのは、発話者が権力機構に組み入れられた存在で権力装置の欺瞞に加担する場合である。そして、不幸なことに日本の権力を学術的な立場で支える(と当人たちは信じている)学者としては圧倒的に東大の先生が重用されているので、「傍観者の論理・欺瞞の言語」のチャンピオンとして代表させられているのである。

 政府としては、日本でトップと信じられている東京大学の学術的権威を大いに利用し、東京大学はその見返りに断トツの研究予算を与えられる(個人的な見返りも大いにあるには違いないが)。本来、東京大学は歴史的にそのような使命を帯びて設立されたもので、ある意味、明治以来の大日本帝国における帝国大学の役割を(無反省にか、反省のうえにかは置くとして)果たし続けているとも言える。国家への貢献を為すためには、政府べったりである必然があるかのようである。少なくとも、政府ないし資本権力の先兵としてたいへんな働きをしている先生方は、学術的に想定しうる国家の審級が驚くほど低劣なのである。
 これはあくまで一部の東大の先生の話であるということを著者と同様に、私も一応述べておく。だいたい、著者の安富歩(以下、すべての人名の敬称は省略)その人が東大教授であるし、私の職業上の知人としての東大の先生方もたくさんいるのでぜひ強調しておきたい。そして当然ながら、一所懸命「東大話法」を実践している教授は、私が勤めていた大学にもたくさんいたのである。

 さて、「東大話法」とはいかなるものか。著者はそれを「東大話法規則一覧」として冒頭に紹介している。それは次のようなものである(p. 24-5)。     

           東大話法規則一覧

規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。

規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。

規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。

規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。

規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。

規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい
     批判する。

規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化
     して属性を勝手に設定し、解説する。

規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。

規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的
      な態度を取らせる。

規則11 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々
      で難しそうな概念を持ち出す。

規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。

規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。

規則14 羊頭狗肉。

規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出
      する。

規則16 わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張
      を正当化する。

規則17 ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを
      並べて、賢いところを見せる。

規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いた
      いところに突然落とす。

規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。

規則20 「もし〇〇〇であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフ
      リで切り抜ける。

 これを読むと、たいがいの人は心当たりがあるに違いない。テレビでしゃべりまくる政治家の言説が文字通り「東大話法」のパターンなのである(繰り返すが、東大の卒業生かどうかは関係ない)。権力が好きで好きでたまらなくて政治家になったものの政治理念など稀薄なものだから、「東大話法」的な弁論術を(たぶん松下政経塾あたりで)一所懸命勉強してきて大いなる実践として欺瞞術を開陳している、ということだろう。
 学者もまた政治権力の使い走りともなれば、そのような政治家の政策の弥縫対策が主要任務であるため、「東大話法」に磨きをかけざるをえない、ということになる。 

 もうひとつ、「東大話法規則一覧」を読んで、すぐに思い出したのは、野崎昭弘の『詭弁論理学』 [1] という本であった。「強弁」と「詭弁」の種々相を読みやすく記述した中公新書の一冊で、ずっと大学新入生の最初の物理学講義における推薦図書にしていたものである。知識をため込んで受験勉強を勝ち抜いてきた学生は、しばしば知識がすべてを解決すると信じたがるが、知識は正しい論理の船に乗らないかぎり役に立たないということを知って欲しかったのである。
 その本には、強弁術の要諦として、「 (1) 相手のいうことを聞くな。(2) 自分の主張に確信を持て。(3) 逆らうものは悪魔である(レッテルを利用せよ)。(4) 自分のいいたいことを繰り返せ。(5) おどし、泣き、またはしゃべりまくること。」(『詭弁論理学』、p. 52)を挙げている。あるいは、詭弁術の例として「二分法」、「相殺法」、さらには論点、主張のすり替えとしての「部分より全体に及ぼす誤り」、「全体より部分に及ぼす誤り」、「否定二前提の虚偽」、「不当肯定の虚偽」、「特殊二前提の虚偽」、「媒概念曖昧の虚偽」(『詭弁論理学』、第3章)について具体例を引いて詳述している。かなりの部分が「東大話法規則一覧」と重なっているのである。

 つまり、安冨歩が東大教授たちの言動の観察結果として得た「東大話法規則一覧」は、忌避すべき詭弁、強弁として論理学的にも指摘しうるものであって、けっして反論、批評のために恣意的にまとめられたものでないことは自明なのである(そのような意味でも、本書の論理学的背景として『詭弁論理学』を参考にすることを推奨する)。

 さて本書は、「原発危機」をめぐる言説の欺瞞性を明らかにしつつ批判を加えることに主眼がある。そのための思想の重要な礎として「論語」に置いて孔子が語った政治を為すために「必ずや、名を正す」という言葉を引用する。正しく名指す、つまり、言葉を正しい意味で使用する、虚偽に満ちた言説を正す、ということである。

 まず始めに、原発危機に関する正しい言説、「名を正す」思想の系譜を紹介する。それは、武谷三男、高木仁三郎、小出裕章とつながる人々である。とくに36年前に出版された『原子力発電』 [2] で表明された武谷三男の先験性は際立っていた(『原子力発電』は、私たちの世代の数少ない反原発の教科書だった)。 

 「原発」、「原発事故」をめぐる「東大話法」的言説の例として、まず取りあげられるのが玄海原発のプルサーマル計画の安全性をアピールするための「やらせ」討論会における東京大学工学研究科システム量子工学専攻・大橋弘忠教授の九州電力の社員と見まがうばかりの言動である。「プルトニウムは水にも溶けませんし、仮に体内に水として飲んで入ってもすぐに排出され」るという自然科学者としては完全にアウト(水溶性のプルトニウム化合物はいくらでもある)と判定されるような主張などをしているのである。 

 次に取りあげられるのは精神科医の香山リカである。小出裕章は、原発事故後「引きこもりやニートといった人たちがその中心層の多くを占めている」ネット利用者のヒーローになっている、と発言したということだ。彼女は「脱原発」派らしいのだが、そのような人々の言説にも「東大話法」的欺瞞が含まれているという著者の指摘は、あたかもフーコーが指摘したように、微に入り細にわたり私たちの周囲に張り巡らされている権力(の欺瞞の)システムをそのまま示唆しているようで、不気味さを感じる。
 それにしても、オタク世代、もしくはオタクに理解を示す(ふりをする)文化人には、ネットと「エヴァンゲリオン」をセットにして論評する人が多いのはなぜだろう。たしかに、日本の良質の部分はサブカルの世界に集まっているのではないかと私も思っているが、いつでも「ネットとエヴァンゲリオン」というのは、どうも安易なテレビ評論家の口説のようで感心しない。 

 次は東京大学大学院工学研究科の「震災後の工学は何をめざすのか」と同・原子力国際専攻」の「原子力工学を学ぼうとする学生向けのメッセージ――福島第一原子力発電所事故後のビジョン」という「東大話法」満載の公的文書が対象で、「逐語的に解釈」 (p. 120) されている。その特徴は「わが国は……」とか「世界は……」という主語から目指す学問の重要性が主張されることで、「私」ないしは「私たち」という主体から立ち上がる自律的な研究目的が語られないことである。著者は、学究の徒としてそのあり方にも大いに疑問をを投げかける。

 さらに、じつに欺瞞に満ちた「原発発言」を続ける経済学者・池田信夫が取りあげられている。「東大話法」のオンパレードの発言に逐次批判を加えていて、詳細については本書に当たってもらう他はないが、なかで一つ驚いたことがあった。池田は次のように発言しているのである (p. 167-8)

再処理をあきらめて貯蔵するだけなら、途上国に開発援助と交換で引き取ってもらうことも可能である。世界には人の立ち入らない砂漠や山地はいくらでもあり、有害な産業廃柬物も放射性物質だけではない。これはコストの問題にすぎず、河野氏のいうように原発を全面的に廃止する根拠にはならない。

 この発言を知らずに、私はあるブログで次のように書いていたのだ。

 いかに後進国といえども、さすがに事故を起こした日本の原発を輸入しようとするほど愚かでない(そうでもないか)と思うけれども、ネグリ&ハートにしたがえば、日本を含む先進資本主義国家は《帝国》として振る舞うだろう。つまり、《帝国》の一員としてどこかの国が原発を売りつけるだろう。そして、かつて公害産業を押しつけたように、「放射性廃棄物処理施設」や「最終処分施設」もセットにされるに違いない。
 そして、数十年後のあるとき、代替エネルギーによって国内の産業維持のめどが立ったとき(国民の生活維持のめどではない)、日本国政府は「脱原発宣言」をする。大量に出た放射性廃棄物は、資本でがんじがらめにされた後進国に「輸出」することになる(これは危険な原発を後進地域の福島や福井に押しつけ、交付金でがんじがらめにした構図と同じである)。
 「脱原発宣言」が出るとき、「あのとき止めておけばこんなに原発事故による被害が拡大していなかったのに」と悔いる破目に陥っているのではなかろうか。何度かの原発事故があって現在の10倍以上の被害者が出るということになっても、たぶん政府は原発を止めない。「生産の効率優先という政策のテレオノミー(目的指向)の、露骨な貫徹」を貫くであろう。

 当然のことだが、これは現在の日本の政治上から想像される将来の日本の「国家犯罪」の姿であって、世界に対する責任として、何としても避けなければならない。それなのに、池田は、あっさりと放射性廃棄物を「途上国に引き取」らせようとし、それはたんにコストの問題だという。経済は人倫に優る、というわけである。しかも、この考えは著者によって「経済的観点からして、間違っている」と批判されている。経済学者が、人倫上も間違いをおかし、経済学的にも間違っている、としたらどういう救いがあるのだろう。 

 著者は、こうした「東大話法」を続ける人々を、「立場」という概念で理解しようとする。それは、いわば日本で長く続いた「ムラ社会」のなかで生きていく知恵として発達してきたものであろう。著者は、日本人の「立場」主義に歴史的な観点から考察を加えている。

 また、著者は「はじめに」において「魂の脱植民地化」という自らの研究について述べておられる。日本人が「立場」主義を脱却し、「東大話法」に、満ち溢れた政治的言説状況を乗り越えるためには、私たちのそれぞれの社会的存在が抱えている「魂の植民地化」を自らが乗り越えることを通じてであろう、と私は考えていて、「魂の脱植民地化」の研究者である著者による新しい展開を期待するのである。

[1] 野崎昭弘『詭弁論理学』(中公新書)(中央公論社、昭和51年)。
[2] 武谷三男編『原子力発電』(岩波新書)(岩波書店、1976年)。



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