かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】『山口哲夫全詩集』 (小沢書店、1988年)

2012年08月24日 | 読書

じじもぎの木の向う
罅われまんまの降るあたり
おんば日傘のかさぶた小僧が
おどろなイドラに身体じゆう
骨がらみ骨うずき
果てはもっぱらの中っ腹さげ
あやめ笠をばたおやめぶりに
みぢん斬り
まわし蹴り
さても空間は盲ら縞もようの
そのやみらみっちゃが病みつきで
じじもぎの実の腫れるかわたれ時
尻ばしょりの韋駄天ばしり
せんずり峠の伏魔殿すわか
熊鷹まなこの錦切れ野郎め!
輪ぎり前げり五月なげ
犬の糞もて泥縄かけて
女日照りの仇を打った
  (してまた床ずれの
  骨がらみ骨うずき
  じじもぎの花の贋の青さに)
                「風雲録」全文 (p. 10-1)

 この『山口哲夫全詩集』の冒頭の詩を読んで、明らかに私は間違ったと思った。私が読んだところでどうにかなる、何ごとかが私の中に残るたぐいの詩ではない、私の手には負えない、と思ったのである。

 ひとつはシュールリアリスティックなイメージの重ねかたである。若い頃、西脇順三郎はそれなりには読んだ。超自然主義的なイメージには苦労したが、それでもヨーロッパ近代の景色、香りのような雰囲気があって耐えられた。しかし、この詩の語彙の一つ一つは明確に日本的であって、いわば言葉一つ一つが私たちの日常のそれぞれの匂いや重みを持っている分だけ、逆に思念もイメージも情緒も焦点を持たないで発散するようなのである。私は、シュールなのが苦手なのである。
 もうひとつは、言葉遊びである。この詩はリズム、語調をきわめて重んじることで成立している。だからこそ言葉遊びが成立しているとも言えるのだが、シュールリアリスティックでかつ音の共通性に基づく言葉遊びなので、さらに詩の言葉は私の中で微塵になって発散するようなのだ。
 正直に言えば、私はもともと詩人の言葉遊びは嫌いなのだ。幼児教育にはきわめて有効だと、幼児教育を職業とした妻は言うのだが、私には上品なオヤジギャグにしか聞こえない。古典の和歌の「掛詞」に感動したことはない。万葉、古今、新古今と「掛詞」も巧みに使われるようになるにしたがって、人生の真実が薄れていくように感じたものだった(授業の「古文」が嫌いだったということの心理的補償作用、つまり意趣返しみたいなものだが)。そんな私は、マザーグースの面白さには一生縁がないのではないか。それはそれで不幸だが、乗り越えるすべを知らない。

 少しうちひしがれて読み進んでいくと、「東風(どんふあん)」という詩が出てくる(p.64-70)。「東風」を「どんふあん」と読ませる題そのもので困り果てているところに、「彼方の父国語にユダる/ラ•マヨネイエーズの禊ぎ」だの、「渡りに混堂の/湯さがりの恋風に/褒美なる姦ツォーネをとぼす」だの、「丘のアンネのリンネ的」だの、「中間子曰く/あんまりエントロがピーなので/さぞや越路も吹雪だろう」だのという恐るべき「言葉遊び」が次々と現れるのである。

 もう終わり、とても前には進めない、この辺でおしまいにしよう、と考えて最後に巻末の著者略年譜を開いてみた。

 山口哲夫は、昭和21年生まれである。私もその年に生まれた。昭和61年2月、山口哲夫は直腸癌の手術を受ける。昭和61年2月には、私も胃癌検診の結果、胃の摘出手術を受けた。昭和63年5月、山口哲夫は癌の転移に伴う尿毒症によってこの世を去った。私は、生き残った。

 読み続けることにした。

ユキアナまでは曳かれもの。夏引く枝川のせせらぎに沿
て昼つ方。灼けた鉄骨二輪車の荷台にほとほと揺られ。
揺られ道のく千鳥あし。櫂ばしら引導人の背には影のほ
とぼり。半ズボンのししあしがおどけ纏足ぶりを模倣し
て。ぎったんばっこん鳥の肝! しもやけ残る円盤少年
の淡きまどろみに。春夢君をたずねて水東を過ぐ。曳か
れ揺籃ピクニック。行くほどに飴屋の隔子に誘われて。
煙管婆さまと二言みこと。ユキアナ参りの首途にて。か
しこみて寒行の斧借り受けよ飴の家。引導人の背には春
のほとぼり。山また川をこの日の合言葉に。今は亡き夜
型の父に捧げる。ひと巻きの雪男の想像図。
                          「雪窟幻想」部分 (p. 80-1)

 先の「東風」が第一詩集『童顔』の最後の詩で、この「雪窟幻想」は第二詩集『妖雪譜』に含まれる詩である。言葉は「多雪の故郷」の道を確実に辿っていくようである。もちろん、旋律へのこだわりは捨てられていない。
 「かしこみて寒行の斧借り受けよ飴の家」の部分まで読み進んだとき「5-7-5-5」なのに完結したリズムの俳句でありながら、またおなじく美しいリズムを辿ってきた短歌でもあるという強い印象を受けた。「寒行の斧借り受けよ」が「7-5」でありながら「5-7」であるためである。「斧」の一語でリズムは美しい遷移を遂げるのである。

 娘の親となる詩人は、さらにいっそう明瞭に世界を区切る。それは、ある意味、親としての凡庸さでもあろうが、美しい「凡庸さ」が描かれる。

その後頭部の波頭にあご寄せて
あの汽車ポッポを見よ、と
遠い平野
河のあたりから来る
煙吐く黒い黙示を呼び返そうとするが
力を添えたオペラグラスの
もやった視界の導入部で
娘は両目をつむってしまう
この風が苦しくても、小さな
青いちゃんちゃんこを脱がせるすべを知らないから
父は
しましまの半てんの裾をひるがえし
ふりかぶつて岸
の内角めがけて投げ降ろすが
娘は
これらのインサイドワークに首を振るばかり
無意味が命中しないのだ
  ………
父は
真昼の展望台の上で
「逃れる聖家族」の
ひたむきを絵本にしながら
スぺースの捕手としてのみ坐像し
まるで
母性愛に目覚めている!
      『娘の彼岸』部分 (p. 223-5)

 父であろうとし、娘であろうとしつつ、風景の中に立つ二人。「無意味が命中しないのだ」のフレーズが心を穿つ。この一行によって、私は詩人を信じた。



(写真は記事と関係ありません)