かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『生誕100年 松本竣介展』 宮城県美術館

2012年08月10日 | 展覧会

 これは巡回展で、岩手県立美術館→神奈川県立近代美術館→宮城県美術館→島根県立美術館→世田谷美術館の順に開催されている途中である。待ちきれなくて、最初に開催された岩手県立美術館へ5月初めに観に行った。

 盛岡に出かける数ヶ月前から私の中ではちょっとした「マイブームとしての松本竣介」があった。簡単に言えば、松本竣介の画風の変遷の意味に少しばかり興味があったのである。
 このマイブームは、2008年秋に「アメデオ・モディリアーニ展」を観るために岩手県立美術館に出かけた際、常設展でたくさんの竣介作品を観たときからじわじわと始まっていた。それほど岩手県立美術館はたくさんの竣介作品を所蔵している(萬鉄五郎の作品も多い)。
 マイブームのせいで、竣介の絵ばかりではなく、朝日晃、土方定一、麻生三郎、村上善男、中野淳、宇佐美承、洲之内徹、小沢節子など、竣介についてのあれこれを述べた文章を、手近で読めるものについてはできるだけ読んでみた。おかげで、松本竣介の画業の総体についてイメージができつつある(かなりおぼろげではあるが)。

 そのマイブームも鎮静化しつつあるが、我が家から3分ほどの美術館のなかに松本竣介の絵が素描も含めて200点以上も並んでいることを想像するだけ腰が浮き立つ。展覧会が始まって6日、美術館の中のレストランで昼食を、と妻を誘って出かけた(盛岡のときは、じゃじゃ麺はどうですか、と誘った)

 地方の美術館の比較的大きなイベントは、地方新聞やテレビのローカルニュースで紹介されるが、「松本竣介展」は、展示作品のなかの《立てる像》を取り上げて紹介されていた。美術館の解説か、メディアの判断かは分からないが、この絵が竣介の代表作(のひとつ)として扱われていると受けとっていいのだろう。

     
      《立てる像》1942年、油彩・画布、162.0×130.0cm、神奈川県立近代美術館 [1]

  《立てる像》には次のような評があって、どことなく古い時代に評されていた「抵抗の画家・松本竣介」のイメージと重なる。

時代がつつむ険悪な空気のなかで、小さなヒューマニズムの影にかわって自分の肉体をまるごと侵すことよりほかに方法がなかったとすれば、当然、画家自身が明日に向かってふく風の前に立たざるをえない。わたしは《立てる像》をみるたびに、画家が現実という名のさまざまな鉄拳で打たれることを覚悟していたように思う。それは恐ろしいまでに矛盾をはらんだ現実である。 [2]

 しかし、村上善男が海藤和の文章を引用し、また竣介の戦争画を例示しつつ論じた [3] ように、竣介の「抵抗画家」という評価は現在ではあまり適切とは考えられていない、と思う。それは、竣介の画業によってではなく、戦時中の彼の文章によってもたらされた誤解だったのであろう。

 この《立てる像》と松本竣介の文章の両方についての洲之内徹の指摘が面白い。

……実は、私はあの作品〔「立てる像」〕が好きでない。「立てる像」だけでなく、それら一聯の「画家の像」「三人」「五人」等の家族を描いた大作(その中心にいつも竣介がいる)が私はどうしても好きになれないのである。どの絵も人物が硬直していて、妙に押しつけがましく、しかも空虚で、どうしてああいう絵がいい絵なのか解らない。しかしいい絵にはちがいないので、「立てる像」は鎌倉近代美術館の所蔵になっており、他のどれか一点は、確か、長岡近代美術館に入っているはずである。 [3]

 絵の中からはあんなに繊細に、あんなに静かに、しかも強い説得力を持って人の心の奥深く語りかけてくる松本竣介が、ひとたび文章を書くと、どうしてこんなしゃっちょこばったタテマエ論者になってしまうのか。どうして、彼はいつも「人間と芸術家の名のもとに」真向上段に正論を振り翳し、声高にものを言うのであろうか。どうして私達とか、われわれとか、いつも一人称を複数形で使いたがるのか。彼の年齢的な若さということもあるだろうが、それだけでは勿論理由にはならない。 [4]

 じっさい、松本竣介の文章を集めた『人間風景』 [5] を読んでみると、じつに生硬な文体が続く。正論と言えば正論、生真面目で「しゃっちょこばった」ごくごく観念的な主張が述べられている。正直に言えば、読んでいてもまったく面白くない。研究者でも何でもない私のような読み手には、最後まで読み通すのが苦痛になるような一冊である。
 そして、その生硬な観念を絵のなかに持ち込もうとしたのが、画家自身とその家族を描いた一連の絵だったのだろう。しかし、竣介の全体の画業の中ではこれらの絵は例外に近い。 

   
      《風景》1942年6月、油彩・画布、38.0×45.3cm、個人蔵 [6]

 《立てる像》の背景は、《風景》という独立した絵として描かれている。この絵自体は、典型的な竣介の風景画で、竣介らしい味わいの深い作品である。人によっては、このような風景画を高く評価している。
 この絵を背景として、巨大化したウルトラマンのような異様な大きさの自画像を描き加えたのが《立てる像》である。おそらく戦争期の高揚がもたらしたと推測されるのだが、「強い意志をもつ存在としての自己」を強く表象しようとする自画像である。画家は、まさに風景に人間くさい物語を持ち込んでいるのである。

 物語性が強く表出されている竣介の絵は、「「立てる像」だけでなく、それら一聯の「画家の像」「三人」「五人」等の家族を描いた大作(その中心にいつも竣介がいる)」に限られている、と私は思っている。
 そして、この絵画における「物語性」こそが評価を二分する契機になりうるものである。物語性は、一枚の絵の理解可能性を大きく膨らませる。たとえば、フェルメールである。フェルメールは、《取り持ち女(放蕩息子)》、《真珠の耳飾りの女》、《手紙を読む青布の女》など、きわめて物語性の強い風俗画によって高く評価されている画家である。その解釈しやすい物語性こそが人口に膾炙する最大の理由、異常に高いフェルメール人気の理由だと思われる。《デルフトの眺望》や《デルフトの路地》などは二の次である(私は後者の絵を強く好むが)。

 《立てる像》が代表作のように扱われる理由は、このわかりやすい物語性によるのだろうと推測している。しかし、物語性は、その「わかりやすさ」のゆえに観る側の理解のありようを強く限定する。画家によって与えられた物語以外の物語を観る側に許さない。それを、「押しつけがましい」と感じる鑑賞者がいるのは不思議ではない。すべての人に同質の感動を与える物語などは希有なのである。
 当然ながら、絵画にはこのような物語性を拒否し、絵画自体の美によってのみ一枚の絵であろうとする、それ自体で絵画の価値を表出しようとするものもある。そして、上記以外の竣介の絵は、ほとんどがそのような絵であると思う。
 たとえば、竣介のモンタージュ技法に重要な影響を与えたとされるジョージ・グロス野田英夫は強い社会批評、風刺性を持つ絵を描いたのだが、竣介は、その社会批評的な要素をきれいに洗い流したモンタージュ技法によって街・都市を描くのである。

 そのモンタージュ技法による私の好きな絵の一枚であって、かつ特別な興味を持っている絵が、下に示す《街にて》である。「特別な興味」とは、右下に和服の女性が描かれていることだ。和服の女性が竣介の絵に登場するのはきわめて珍しい。この絵(と、まったく同じ構図、同じ色彩で描かれたサイズの異なるもう一枚の《街にて》)以外で和服姿の女性が描かれているのは、ごく初期の作品、19才の時の《婦人像(叔母・千代子)》だけである(図録によれば)。

      
       《街にて》1940年9月、油彩・板、116.6×90.7cm、下関市立美術館 [7]

 つまり、この例外を除けば、松本竣介における人物像は男性も女性もすべて洋装である。この絵でもそうだが、帽子を被っている女性が多く描かれ、それは戦前にあってはいわゆる「モダン」と呼ばれていた服装である。
 このことと竣介がこだわった都市の風景とを重ね合わせると、竣介の心象風景の中のモダン、「近代」が見えてくる、というのが、私が辿りついた竣介理解のひとつである。
 〈「未完の近代」を彷徨う意志の画家〉というのが、松本竣介理解における私のモチーフで、いずれもう少し理路のしっかりした考えにまとめてみたいと思っている(能力にあまるかもしれないが)。
 

      
      《彫刻と女》1948年5月、油彩・画布、116.8×91.0cm、福岡市美術館 [8]

 時代とともに変遷する松本竣介の最晩年の絵が、《彫刻と女》である。この絵を初めて観たとき、「あっ、新しい竣介だ」と思ったのだが、これが36才で夭折した画家の到達点であったのか、それとも新しい時間発展の最初であったのか、私には判断できない。
 竣介の親友であり、画友であり、もっとも優れた理解者でもあった麻生三郎の言葉で締め括ることにする。


『彫刻と女』『建物』この二点は絵画自身というか、客観的になってレアリテが強い。よけいなものは一切ない。「知性と感性の乖離」といった彼の頭のなかのことが、肉体的に処理できた作品である。彼の方法論は感性と意識との対決であり、両方同時にのぞいていたのであろうが、この作品ではもつと大きな力で仕事がなされていることが感じられる。質的な飛躍であり、質の革命であったろう。彼の仕事がこれまでより大きくなつたというものだ。これが最後になったのが残念である。彼の近代的な生活および絵画思考がまちがいなく、発展的に決定された作品だと思う。 [9]


[1] 『生誕100年 松本竣介展』図録(以下、図録)(NHKプラネット、NHKプロモーション、2012年)p. 93。
[2] 酒井忠康『早世の天才画家――日本近代洋画の十二人』(中央公論新社、2009年)p. 322。
[3] 村上善男『松本竣介とその友人たち』(新潮社、昭和62年)。
[3] 洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮社、昭和53年) p. 236。
[4] 同上、p. 240。
[5] 松本竣介『人間風景』(中央公論美術出版、昭和57年)。
[6] 図録、p. 157。
[7] 図録、p. 65。
[8] 図録、p. 231。
[9] 麻生三郎「松本竣介回想」『松本竣介画集』(平凡社、1963年)p. 118。