かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

清水昶の三冊の詩集

2012年08月07日 | 読書

『野の舟』 (河出書房新社、昭和49年)
『さ迷える日本人』 (思潮社、1991年)
『黒い天使』 (邑書林、1998年)

 細見一之が、「一九六八 日本の現代詩」という副題を持つ短い文章で、清水昶にも触れていた [1]。確かに1968年当時、長田弘や佐々木幹郎と同じように清水昶もまた日本の若手詩人を代表していた。

 清水昶が死んで1年以上も過ぎようとしている。1969か70年頃だったと思うが、その詩人に1度だけ会ったことがある。大学院修士課程の学生だったある日の夜半、私の後輩に案内されて私のアパートに突然現れたのだ。

 仙台の詩の同人誌の招待で来仙され、夜の街から私の後輩にうまいこと乗せられてやって来たらしい。私は、その同人をすでに脱けていたうえに、心ひそかに詩を断念していた時期であった。後輩も詩人も私が詩を書く人間であると思い込んで話をするので、会話はまったく弾まないのであった。とくに韜晦趣味があるわけではないが、詩を書くとか書かないとかをその場で表明するつもりもまったくなくて、どのように受け答えをしてよいのが戸惑ってばかりいた。
 話の内容はほとんど覚えていない。ただ、詩人が「あなたのような人が、仙台で詩を書いていこうとするのは苦しいでしょうね」という意味のことを話されたことだけは(当然ながら、詩を断念していた私にはどのような応答もできずにいたことと併せて)ずっと心に残っている。

 細見の文章に誘われて、清水昶の詩をもう1度読んでみたいと思ったのだが、私の本棚には一冊の詩集もない。昭和47(1972)年発行の『詩の根拠』という評論集があるだけである。詩を断念してから10年近くはほとんど詩を読まなかったが、本屋でたまたま見つけた清水昶の名前だけで買った本だろうと思う。

 やっと集めることができた詩集が、冒頭の三冊である。『野の舟』は詩人が33才前後の詩を集めていて、50才を越えてからの詩集であるあとの二冊とは、だいぶおもむきが違う。
 『さ迷える日本人』と『黒い天使』では、幼年期や学生時代の記憶、別れた恋人の記憶が平明な文体で描かれ、その優しい抒情は現在の日常に静かにその時空を連続させている。

ぼくは振り返る
羽月の月下の夜を
春子里子妹姉や
父親に折檻されて荒縛で縛られ
一夜軒下に狸のように吊るされていても
耐え抜いた
混血朝鮮人少年助坊は
素晴らしい鉄拳を持っていた
彼ら悪童はみな正義の味方だった
蛍狩りも一緒にやった
タ暮れ時竹笛を合図に
村の悪童たちが夏のたんぼに集まって
それぞれ笹竹を手にして
それぞれが狙った平家蛍?には
咄嗟に自分の名前が付く
たとえば
アレガあきらちゃんの蛍!
助坊の蛍!
てっちゃん蛍!
はるこ、さとこの蛍!
 ……
東京も老いている
どこにも蛍はいない
蛍の墓はもとより
清水家代々の墓もない
いったい
ぼくはどこに入つたらいいのだろう
平成十年元旦
深夜のラジオニュースは
地球全体が
黄昏の季節に入っていることを
告げている
        
「蛍」部分 [2]

すべては夢だ!
歌謡曲のように
終着駅には見知らぬ女が降りてくるばかり
あの暗緑に濡れた彼女は ひっそりと閉じて
遠い記憶の駅で途中下車したのだろう
京都での学生時代 下宿の暗闇に眠っているとき
おびただしい落花の音で
はっと目を覚ましたことがある
ある種の花は
音をたてて死ぬこともめるのだ
そのとき
北村太郎さんではないが 何故か
もう死ぬのではないかとかんがえた
肉体のそとがわでは
海のような学生運動が終焉し
友人たちは みな走りぬいたあと
空気のぬけた自転車のタイヤのようだった
少年の頃から
ゆうひが好きだった
燃え落ちほろびゆくもの……
満開の桜が嫌いなのは
全身で美しさを誇り
無惨に散ることを知らないからだ
だれもが迷っている
東京の林立するビルの町にも
ゆうひが火の粉のように降ってくる
そんな日にかぎつて
夜の空に異様に赤い月が浮かんでいる
夢のない日を
今日は深く眠れるだろうか
            
「ゆうひ」全文 [3]

霧の道をさ迷い歩いた
もし青春があつたとするならば
そのようなものだろう
霧だって音をたてて流れることがある
京都で流れ者の学生だったときも
霧の音を聞いたような気がした
五番町タ霧楼の跡地にあつた
小さな居酒屋「タ霧」に入り浸っていた
 ……
「タ霧」には
本当の美少女の夕子がいた
学生たちは
みんなその子を狙って
あつまったが
だれも手をだせない
彼女の背後には
濃い黒い霧のようなヤクザの影がありすぎた
 
……
五番町の夕子
抒情の消えた東京にも
霧が吹きはじめた
        
「京都夕霧五番町」」部分 [4]

 それがどんな哀しみにみちていようとも、過去は許されている。いや、許すとか許さないとかを越えて、その時空がそっくりそのままそれ自体として感受されている。そしてその態度は、そのまま現在のありようの受容へと繋がっているようだ。

 しかし、もっと鋭く勁く抒情が立っていた『野の舟』による若い詩人は、次のようにみずからの心のありようを明らかにしている。

 わたしは少年期から青年期に至るまで、さまざまな地方、さまざまな都市に移り棲みましたが、そこで出会い、そしてわかれた多くのひとびとのなかでも印象深かったのは、まるで自身の心のなかにのみ頭を垂れてくらしているようなひとびとでした。わたしは彼らの心のなかに土足で入り込もうとしては手痛くはねつけられてばかりいましたが、彼らこそわたしのなかに、しつかりと棲みついているわたしと同じ他人であることを長い時間をかけて、ようやく気づいたような気がします。わたしは、さしたる希望も絶望も持ちえない、この「精神の白夜」の底を、さらに底なしに生きてゆくひとびとを恐れます。そして、そのようなひとびとを自己の内部に棲みつかせてしまった、わたし自身をこそ、もつとも恐怖します。 [5]

 少年の日わたしは死の恐怖にとりつかれ、深夜ふとんをかぶって、ひとりすすり泣いていたことを覚えている。だれも手をさしのべることの出来ぬ闇深くでふるえていた幼い魂から涙とともに死はひき潮のようにひいていってしまったのだが、そのとき以来、青年期にいたる今日まで、やみくもな死の恐怖感に憑かれたことは、わたしにはない。「荒廃」といった言葉でしか呼びようのないこの市民社会から浸透してくる荒んだ感覚は、わたしを死の方へと導くのではなく、自身の絶望観をも拒んで「見る者」へとみずからを回転させ、その拠点から市民社会へのはげしい反撥を見せるようになっていった。しかし、この世で生きのびてやるのだと云う断言を内心にひそませる者にとって、この見者の徒はしばしば破られ、単身、世界の荒廃に向かって足を踏みだすとき人知れぬ無力感が暗い穴をひらきはじめる。それが死への誘惑を秘めているかどうかは現在のわたしには判然としないが、死が人間のぬぐいようのない事実であることを想うとき、その絶対さとうらはらにあくまで幻想としてしか個人の内部でとらえ得ぬ死の観念がいかなる肢態をとって人生に棲みつくかがその人の思想を大きく決定づけてしまうこともあるのだ。 [6]

 そのような心性の詩人が描いた『野の舟』には、幼年時代から未来の死に架けて張られた緊張した時間軸と、内部の他者から市民社会へと張られた空間軸をもつ時空のなかを、自在に行き来する抒情がある。

毎日きまった時刻に
1頭の馬がめくらの男を乗せ
明澄な朝を目ざして
おれたちのなかから旅だつ
闇から闇へと老いてゆく男を乗せて
虚妄にひかる馬一頭が
夜の未来を踏みしめてゆく
めくらの男と馬の行手に
たぶん
殺されるために生きのびている覚悟がある
封じられるために語る口がある
     「おれたちは深い比喩なのだ」部分 [7]

ストップモーシヨンの映像は
一瞬の後またたくまに崩れ落ち
恐怖は地獄で
世界よりもあかるく輝いた
やがて一刻の後
人々は笑い声さえたてながら日々のフィルムにまぎれてゆき
フィルムのそとがわでは
ひとりの男が
犬のように擊たれて斃れている
わたしは
耳のうらがわで
ゆっくり塔が燃え落ちる音を
はるかに遠く
聞いていた
          「塔」部分 [8]

前進がすなわち
かぎりなき後退である今日
われらは
素足で痛みを踏みしめて
深い虚空に傾いた
ゆうぐれの地平線上を歩いてゆけ
火を求め
みえざる柩を負わされて
ついにいのちの
点となる日まで……
         「柩」部分 [9]

抒情をきわめた一族は
殺しあいながらほろびさり
そして
まぼろしの
さらにまぼろしの
夥しいひまわりが朽ちもせず
吹きっ曝しの雪の首都
石の墳墓で
現実よりも鮮明にきみを待つ
      「ひまわり ――冬の章」部分 [10]

 詩としての出来具合、完成度を云々することはできないけれども、正直に言えば、若い時分に書かれた詩群の方に魅力を感じる。そこには、恐れも哀しみも不安も憎しみも、想世界の実在として配されている。そして、その想世界からは『黒い天使』や『さ迷える日本人』に至る道が確かに延びていたのだろうが、読み手である私の現在の生そのものへと繋がる道をも内包しているようなのである。
 そのように詩人の中の詩的想世界が、多様な読み手の多様な現実の生へと時間発展する潜在可能性を保持していることが、優れた詩の条件ではなかろうか、少なくとも私のような読み手にとっては。

[1] 細見一之「正直な怒り、正直な抒情、正直な愚痴」絓秀実・編『思想読本11 1968』(作品社、2005年)p. 98。
[2]『詩集 黒い天使』(邑書林、1998年)p. 20。
[3]『詩集 さ迷える日本人』(思潮社、1991年)p. 36。
[4]『詩集 黒い天使』p. 6。
[5]「あとがき」『詩集 野の舟』(河出書房新社、昭和49年) p. 116-7。

[6]「死の上をはだしで歩く詩人―大野新論」『死の根拠―清水昶評論集』(冬樹社、昭和47年)p. 118-9。
[7] 『詩集 野の舟』p. 10。
[8] 同上、p. 20。
[9] 同上、p. 38。
[10] 同上、p. 50。