
【18 💪部屋5-45 DBentOverRaw20kg RearDertoidRaize6.25kg DShoulderPress15kg Crunch BallLegRaize】 1968年9月21日に公開された日本の映画である「あゝひめゆりの塔」が、終戦記念日の頃にテレビで放映されていたので録画して先日観た。
監督は舛田利雄、主演は吉永小百合、日活制作で、日活青春スター総出演の作品であり、明治百周年記念芸術祭参加作品である。

昭和十八年。太平洋戦争は各戦地で米軍の反攻がはじまりつつあったが、沖縄はまだ戦争感は薄く、沖縄師範女子部の与那嶺和子は、級友の比嘉トミらと運動会を楽しんでいた。そして師範男子の西里順一郎と知り合ったのは、青く澄みきった秋の空の下だった。昭和十九年、沖縄も戦場としての体制下となり、和子や西里ら学生も一日の半分を陣地構築の作業に従事した。このころ、二人はお互いにかすかな愛情を感じはじめていた。サイパン島が玉砕し、小学校の学童は内地に疎開が決まった。小学校教員の母ハツは和子や弟・武に別れを告げ、輸送船・対島丸に乗った。その対馬丸が潜水艦に撃沈され、永遠の別れになろうとは。姉弟は、母の分まで生きぬこうと誓いあった。十月、米グラマン機がついに襲ってきた。那覇市は炎上し、師範の校舎は焼けた。空襲は連日続き、軍は全島に非常戦時体制をしき、女子学生は臨時看護婦として南風原陸軍病院に、男子学生は鉄血勤皇隊となって陸軍と行動を共にすることになった。昭和二十年三月、和子たちのために証書も賞状もない小さな卒業式が開かれた。校長は訓辞の途中で絶句し、先生たちも、和子もトミも泣いた。そして四月、ついに米軍が無血上陸に成功した…。

ひめゆり学徒隊を描いた映画。
ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成されたものの名前。
「幾度となく映画化された“ひめゆりの悲劇”の中でもひときわ異彩を放つ、ダイナミックな演出が映える傑作。」だと評価されていたようだ。
たしかに自分自身が「ひめゆり平和祈念資料館」で学んだこと、あの当時の沖縄戦の惨状として見聞きしてきた状況からいうと、この映画の内容や惨状は、ずいぶん違っているように感じる。
この映画が制作された当時、まだ多くの国民に戦争の記憶はあったわけで、しかしすでに終戦から20年以上経っていて戦争は遠くなりつつあるという時代ということで、その距離感を、この映画の若い出演者が戦争を知らない世代であることも含め、リアルさは置き去りにしつつの大胆な演出に反映させているようにも感じた。

戦争映画でもなく、反戦映画でもない、前半部分や戦局が逼迫した後半部分で時折差し込まれるふとした日常や会話を観るともしかしたら青春映画なのかも知れない。
救いようのないラストシーンの描き方も含めて、制作者には、当時の時代と世相に対する大きな迷いがあって、この作品となったのではなかろうか。
ことさら強調して描いてはいないが、当時の大日本帝国政府や日本軍の狂いぶりには、辟易させられるし、そして二度と政府や軍の暴走を許してはならないと、噛みしめた。
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