城郭 長谷川博美 基本記録

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巨大城郭玄番尾城見学会と瀧川儀太夫の城の考察

2023-10-20 05:36:40 | 東海の城 ビイスタ工法
◆御意見役
米原学びあいステーシヨンから
関ケ原まつり見学会に行かれた
時の長谷川先生はネクタイ着用
をされていて参加者様には好評
だったとの事です。正装された
長谷川先生の県外での大講演は
何度も何度も拝見させて頂いて
おり滋賀県内と県外での空気は
全く違っております。令和5年
10月21日の余呉城郭研究会様
の玄蕃尾城見学には県外の人も
何にか必ず参加されるとの情報
です参加人数の多寡に関わらず
先生は初対面の方に現地見学会
の講師であると言う事を一目見
解る様なネクタイを着用して
紳士として敬意や礼儀を尽くさ
れるべき身だしなみが必要です。
 
 
◆長谷川
貴重な御意見を賜り感謝致します。
私は1980年代より活躍させて頂い
て活動履歴の長い講師なのですが
時代は2023年です。初対面の方々
も多いと思われます。講師らしい
クタイ着用は礼儀として重要だと
思います。貴重な意見に感謝です。
 
◆『信長公記』受講者
斎藤道三と織田信長会見をした時
織田信長は普段の粗野な服装から
シフトチェンジし室町大名が着用
する正式な殿中装束で会見に登場
会見の席を圧倒した場面がある事
時と場合TPOに合わせてる事重要
 
 
◆対談者
長谷川先生の見学コースや解説
は参加する度にバリエーション
を変化されます。その変化球や
基礎理論や引出の多さはまるで
多様な編曲を駆使する音楽家!
 
 
▼過去写真です。
◆長谷川
天正11年の賤ケ岳合戦最大の城郭
は何と勝者羽柴秀吉方の城郭では
なく敗者の柴田勝家の内中尾山城
/玄蕃尾城が最も巨大と言え城郭の
ビイスタ構造も見事だと言えます
歴史の結果や歴史の現場の現実の
矛盾は絶えず発生していて玄蕃尾
城の巨大さは織田家筆頭家老格の
城として訪れた人々を圧倒します。
 
 
◆推薦者
歴史城郭研究家長谷川さんの研究
家としての玄蕃尾城研究履歴とは
1981年昭和49年にまで遡れますか
ら今から42年前には既に玄蕃尾城
の全貌を捉えている先駆的研究家
城郭本舗とも言える長谷川さんの
現地解説を私はイチオシ推薦です。
 
▼民俗文化昭和49年長谷川作成図
 
 
 
 
◆長谷川
令和5年10月21日玄番城見学会です。
講師を務めます宜しく御願いします。
 
今回の見学会の特徴PR
★★★★★
旅情紀行PR編
①越前近江国境の初秋景観抜群
②時に鹿も鳴く奥山深山の旅情
③明治宰相伊藤博文柳ケ瀬隧道
④信長VS朝倉の利根坂古戦場!
 
 
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遺構PR編
①全長270mを超える巨大城址
②巨大堀跡は貴方を確実に魅了
③城址には天守台跡と礎石残存
④発達した城郭縄張は織豊城郭
 
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見学PR編
①巨大玄蕃城パーフエクト見学
②見落としなく迫力写真撮影可
③資料は柴田勝家北庄城玄蕃尾
を併記させたA4、10ページ力作
④当日併せて北庄城の解説実施
 
 
▼申し込み先は下記からどうそ
 集合場所をよく確認下さい。
 
◆対談者
玄蕃尾城の構造たるや想像を絶する
弩級の規模をしており圧倒的ですね。
 
 
◆対談者
北伊勢では柴田勝家方の友軍
瀧川儀太夫が峯城で善戦して
いますね。この時期の峯城の
天正11年期の陣城の様子は?
 
◆長谷川
峯城北城が手前から食違虎口
外枡形、内枡形、奥に天守台
も構えた織豊系城郭でしょう。
ビイスタとしては赤線の扇型
が読み取れます。見事な縄張。
 
◆長谷川
緑色のビイスタ線等も見えます。
 
◆長谷川
前面にもビイスタ線が読み取れます。
 
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

滝川 益氏(たきがわ ますうじ、大永7年(1527年) - 寛永12年

1635年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将

滝川氏の一族。通称は儀太夫または新助(新介)。前田利益

次子とする説がある。妹あるいは娘は前田利久(利益の養父)室。

楠木氏最後の当主楠木正盛は「瀧川義太夫」の娘を室としている

(『勢州軍記』)が、この義太夫が益氏のことか滝川益重のことかは不明。

生涯[編集]

織田氏の家臣・滝川一益の従弟ともいわれる。佐治 益氏(さじ ますうじ)

と同一人物もしくは他の人物との混同があるとも言う。

主君の一益に従って、天正9年(1582年)の甲斐甲州征伐や、同年6月に

発生した本能寺の変の後に起こった相模後北条氏との争いにも従軍

神流川の戦い)した。しかし、一益が上野国を失い伊勢国へ敗走する

と益氏もこれに従った。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて

一益は柴田氏に与し、関盛信の留守に乗じ亀山城を奪い、峯城(嶺城)

にいた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)派の岡本宗憲を駆逐すると、亀山城

に益氏、峯城に滝川益重が入れられた。しばらくして両城は羽柴軍の

猛攻を受け、亀山城は2月16日から包囲されるとこれをよく防戦したが、

一益が使者を亀山城に派遣し開城を薦めたため、益氏は3月3日に開城し、

長島城に入った。晩年については不明であるが、寛永12年(1635年)に1

00歳を超える年齢にて死去したという。

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