驚愕! 双子城郭の縄張を解明する。
◆長谷川
城郭鈴鹿会様の講師として伊賀
桜町中将城と滝川雄利城を見学
致しました。これは実は二子城
の縄張で2城で一城の縄張です。
この件城郭ビイスタ理論で判明。
◆長谷川
しかし鈴鹿会の講師を解雇になり
彦根湖東玄米会に行く事なつた事
トホホな情けない不人気研究家!
◆長谷川
甲賀の二子城郭はビイスタ工法で
設定されおります。新宮城もソレ
◆長谷川
ただ意味なく並んで城
が存在する訳ではない
★この投稿は
前ふり
落ちの二部構成になっています。
最後まで熟読してその価値あり。
◆長谷川
私は〇〇〇様を見学リダー
とし少人数で見学勉強会を
したいと思います希望者は
世話人様に連絡して下さい
◆学術家
一般の方は甲賀向山城
を長谷川さんから学ぶ事が
大切です。私は甲賀瀧川氏
城の長谷川氏解説に衝撃を
うけました。2城館が一組
としてセットになっている
しかも幾何学測量的に両城
を同機調整してる事の驚き
です。この様な学術視点は
昭和、平成、には存在しな
かい新視点で単郭方形城館と
いう中世社会史論的視座のみ
から見たデフオルメ的省略
簡略概念型の学問が流布し
た遠因や原因が存在します
2城館並立併存する場合に
は如何なる設計測量縄張
がなされたか長谷川先生
の解説は恐るべき学説で
私の私の脳裏に印象付け
る事になり衝撃でしたよ。
▼甲賀瀧川城館2城図
◆長谷川
これ等城主親子や親族
血属眷属が合議して城
の縄張や農村景観自体
の形成していた苗字を
同じとする同族連合の
合議体制が読み取れる。
これを近江伊賀型たる
一城別郭と解釈すべき
かが私の問題提起です。
▼近江の甲賀瀧川城館群
◆学術家
長谷川氏の城郭解説は非常
に高度学術側面が存在しま
す。昭和、平成、令和へと
時代は推移しましたが城郭
ビイスタ論などに気付いて
着眼論説される姿勢は向学
派学究派の方には驚くべき
研究視座視点の提示提唱で
す。氏は既に滋賀県中世城
郭分布調査時点で卓越した
測量視点や解析視点視座を
既に持っておられた研究家
と言えます。さて私は甲賀
の向山城の2城郭を長谷川
学兄に御教示賜りたいと
かねがね思っております。
◆有識者
甲賀東向山城の城館分布
を幾何学論を用いて解説さ
れた事は中世社会史研究上
においても日本の土木測量
史上においても全く画期的
学術新説である事は確実!
◆甲賀 向井山城 二城一組
ビイスタ工法のなさせる技!
◆みんな
こんな方法で城が配置され
ている事など知らなかった
これを知らず昭和平成と城
を巡っていた長谷川解説を
聞いてやはり本物だと思う。
◆長谷川
この法則は甲賀の寺前城と
村雨城においてもビイスタ
理論を用いれば理解可能!
◆みんな
城郭ビイスタ論はスゴイ!
◆長谷川
脱線しますが関東の麻場城
も素晴らしいビイスタ工法
の城だと言えますね!
◆質問者
関東の麻場城の人的な歴史
を少し解説して下さい。
◆群馬県甘楽郡甘楽町のホーム
ページから引用
麻場城は、甘楽町の東北丘陵地帯
の舌状台地上の先端部に立地した
丘城である。当城は、この地の豪族
白倉氏の居城であり、約500m東方
にある仁井屋城と合わせて白倉城と
呼ばれ、別城一郭(双子城とも言っ
て、二つの城が一人の城主のもとに
相助けて戦う構造)の形態といわれ
ている。
◆対談者
さあこの投稿ブログ前フリ
から本題に入って来ました
長谷川城郭ビイスタ理論の
閃光が爆発するのかゾク
ゾクする展開になってる。
◆ウイッキペデイア
白倉氏を引用すると
白倉氏は、児玉党の一族であり、上野国甘楽郡白倉[1
]を本領とし、白倉氏を称した。
から白倉氏を称した。その後、足利氏に従い、山内
が鎌倉で関東管領就任の儀式をしたさい、側近として付き
とこれを防ぎきれず、永禄6年(1563年)武田氏に降った[5]。
天正9年(1581年)武田氏が滅亡すると、道佐の子・
、滝川方に付いて戦った[6]。合戦に敗れた
滝川一益が伊勢に逃げ帰ると北条氏直に降った。天正18年
(1590年)小田原征伐では、白倉城[7]に弟・重高を置いて守
らせ、白倉重家は小田原城に籠城した[8]。北条氏が滅亡すると、
白倉氏も所領を失い没落した。
◆質問者
浅場城と仁井屋城のビイスタ関係は?
◆長谷川
それぞれの城にビイスタがあります。
◆猜疑者
まさか?長谷川ごとき無名
学者が白倉城に2城が連動
するシンクロビイスタが
存在したらエライ事になる
長谷川が5流学者でなく本物
と言う事にならオレラ誰か
に騙されたアンポンタン様?
◆長谷川
そういう派閥や学派の壁を
越えて清廉潔白な学術へと
より純粋城郭研究へと私は
進みたいと思います。少数
の方を大切する負組ですが
内省的でストイックな学門
を私は目指しています。1人
でも2人でも少数でよろしい
から私と共に学びましよう!
麻場城と仁井城を合わせて
白倉城と言う事は両城の配置
が城郭ビイスタで周到に設計
されたとみるべきと思います。
白倉城のシンクロビイスタが
下図なんです。一城別郭だと
言葉で唱えるは簡単図形で
解説する事も令和の新しい
城郭研究だと私は思います。