10月1日、茨城・大子町の奥久慈温泉から、約70km離れた、太平洋岸の北茨城市に行き、野口雨情、岡倉天心の世界に感動して来ました。
野口雨情記念館、と野口雨情の生家では、今でも人気の、数々の童謡や日本中のご当地民謡が生まれた、雨情の情熱、苦闘、詩が生まれた背景などを知り、雨情が作詞し、中山晋平や本居長世などが作曲した童謡や民謡を、以前にも増して、感動しながら聴くようになりました。
「十五夜お月さん(花かげ)」「シャボン玉」「青い目の人形」「七つの子」「赤い靴」「雨降りお月さん」「証誠寺の狸囃子」など、やさしい雨情の心が、伝わってきました。
今まで、作詞者を気にとめていなかったので、改めて、「この歌の作詞が、野口雨情だったのか」と、ビックリしたのが、「船頭小唄」「波浮の港」など。
「船頭小唄」は、雨情の「枯れススキ」の題名を、中山晋平が、「悲しすぎる『泣き唄』になってしまうから」と奨め、題名を変えたのだそうです。演歌師たちのバイオリンにのって大流行し、野口雨情の伝記映画の中で、森繁久弥が歌い、今も、森繁節が、耳に残っています。
「シャボン玉」は、生後間もない我が子が、風邪が元で亡くなってしまった悲しみを、子どものシャボン玉遊びに込めた鎮魂歌でもある、という説明を聞き、「生まれたすぐに壊れて消えた」という歌詞に雨情の悲しみの強さを感じました。野口雨情記念館の前庭で、野口雨情の銅像の前に立つと、「シャボン玉」の童謡が流れ、シャボン玉が飛び出しました。素敵なビックリでした。
野口雨情の生家では、雨情のお孫さん「野口不二子」さんが、野口雨情の生い立ち、人となり、売れない頃の大変な生活、その生活を支えた夫人の「ひろ」さんが、栃木の実家の援助を受けて支えたことなど、お話しくださいました。
また、不二子さんは、雨情の、「ひろ」さんが、2日がかりで、栃木・喜連川から、馬に乗ってびしょ濡れになって嫁入りしたことをうたった「雨降りお月さん」を、八二歳とは思えない、きれいな声で、歌ってくれました。感動でした。私より、1ヶ月前にお生まれになった、お姉様で、かくしゃくとした説明振りにも、感動でした。
雨情は、
「童謡は、童心より流れて、童心をうたう自然詩である」
「民謡は、民族生活の情緒をうたう唯一の郷土詩であり、土の自然詩である」
「詩とは、言葉の音楽である」
と言っています。
野口雨情の世界を、いっぱい感動してきました。野口不二子さん、ありがとうございました。
野口雨情生家の近くで咲いていました。
10月5日「今日は何の日カレンダー」より 時刻表記念日
▲パリ庶民数千人がヴェルサイユに行進し王宮に乱入(1789)▲東京音楽学校開校(1887)▲初の時刻表出版(1894)
▲立教大学登山隊、日本人初のヒマラヤ登頂成功(1936)▲服部時計店クォーツデジタル腕時計を発売(1973)
▲銀座と新宿で土曜歩行者天国(1974)▲山口百恵、日本武道館でラストコンサート(1980)▲ポーランドのワレサ
「連帯」委員長にノーベル平和賞が授与(1983) ▲ダライ・ラマ14世にノーベル平和賞(1989)▲小渕再改造
内閣発足(1999)▲ロト6第一回抽選(2000)▲阪神のマット・マートン イチローのンシーズン最多安打記録210本を更新(2010)▲カズオ・イシグロにノーベル文学賞(2017)
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