時は流れる?

2018年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
 今年もゴールデンウイークが終わってしまいました。
 おもえば、遠足も運動会も修学旅行も大学時代も国際学会での発表も扁桃腺の手術も、流れるときに乗って過ぎ去ってしまった。
 朝、もうちょっとだけ眠りたいと目覚まし時計を布団にくるんで抱えても、1時間後はすぐにやってきてしまう。
 意識した未来は、必ず過去になってしまっている。
 アインシュタインですら「私は先のことなど考えたことがありません。すぐに来てしまうのですから」と言います。
 我々は過ぎ去った時と未だ来ない時に挟まれたまま、抜けだすことができないのでしょうか?
 道元禅師は正法眼臓で、
「(時は)去来の方跡あきらかなるによりて、人これを疑著せず。疑著せざれども、知れるにあらず」
 人は時は流れるものと疑っていないが、時のことをわかっていない。
「われを排列しおきて尽界とせり。この尽界の頭々物々を、時々なりとしょ見すべし。われを排列してわれこれをみるなり。自己の時なる道理、それをかくのごとし」
 自分があって世界があり、世界のすべてのものが時である。自分が世界にあることで世界が成立する、すなわち自分自身が時である。
 これは、我おもう故に我あり、といった自己認識が全てというおもい上がった態度ではなく、
「時時の時に尽有尽界あるなり。しばらくいまの時ににもたれる尽有尽界ありやなしやと観想すべし」
 時のそれぞれに全存在、全世界がある。ためしに今この時から外れた全存在、全世界があるかどうか、考えてみなさい。
「時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある。これ有時なり」
 時は流れるようにみえても、自分はその一瞬の時(而今)なのだから、時は自分自身なのだ。
 う~ん、わからない。
 ただ、道元禅師も流れ去る「時」に苦しんで、必死にもがいていたことは、ひしひしと伝わります。