キールのおもいで

2018年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム
 ある地方都市の市長に当選した友人と、バーカウンターでのこと。
 彼は中央官庁の役人をしていましたが、父親の市長が亡くなり、急遽地元に帰ることになりました。
 当初無風の選挙とおもわれていたのが、若い農家出身の対立候補が登場し、想定外の混戦になってしまいました。
「家の方は、大丈夫?」
「妻はいつかは戻るって、覚悟してたけど、子供がね」
 当選しても、私立に入れていた子供たちは東京に残して、彼は単身赴任の予定だったのですが、あまりの辛勝に、地元住民との関係を改善するために居を移し、子供も地元の学校に転校させることになりました。
「早く言ってくれれば、俺は出なかったのに。役所でやり残した仕事もたくさんある」
「でも、おかげで市民の本音がわかったんじゃないの?」
「農家を敵に回してしまったからなあ。こんなことなら農水省に入っておけばよかったよ」
「門外漢だから、逆にやれるんじゃないのかな?これで農水出身なら、かえってかわいくない(ここは彼の地元の方言で言ってあげました)とおもうよ」
 カウンターにグラスが置かれました。
「赤ワイン?」
 私は首を振って、彼にも勧め、自分でも一口飲みました。
 華やかな甘みが口の中に広がり、程なく酸味がそれを引き締めてくれます。
 キール、白ワインとクレームドカシスのカクテルです。
 フランスブルゴーニュ地方のアリゴテという品種を使った白ワインは不人気で、販売に苦戦していました。
 そこで、地元ディジョン市の市長、フェリックス・キールはアリゴテの白ワインに地元特産のカシスを使ったリキュール、クレームドカシスをミックスしたカクテルを考案し、ディジョン市の公式行事には必ずこのカクテルを供することで農業振興を図り、このカクテルは市長の名前から「キール」と呼ばれるようになり、今では世界のスタンダードカクテルです。ちなみにキールロワイヤルは、キールのアリゴテの白ワインをシャンパンに変えたバリエーションで、オーストリアのバーテンダーの創作です。
 フェリックスキールは5期、90歳までディジョン市長を務めました。
「90歳まで? 勘弁してよ」
 そう言いながら、彼は2杯目のキールを頼みました。