ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ボードレールについて(一)小林稔 詩誌「ヒーメロス」より掲載

2015年12月18日 | ボードレール研究

ボードレールについて(一)

小林 稔

 

 ボードレールの『悪の花』十三篇を自ら訳し終えて感得するのは、強烈な詩性である。このような詩が生み出されるには、書く主体の、つまりは生身の人間に躍動する永遠不同なる「詩人像」が内在しなければならないのだろう。ミシェル・フーコーが晩年に辿り着いた「生存の技法」、すなわちボードレールのダンディズムが要請されたことだ。言語の密度で迫力を見せつけたり、虚構を口実に小手先のレトリックで書く現代詩人の衰退した詩とはなんという相異であろうか。詩の前で詩人は消え去るべきだという、ご都合主義には騙されまい。詩は詩人より優位に置かれるべきことは当然のことであるが、ボードレールの詩のどの作品一つをとっても、詩人の存在を感じさせない詩はないと言える。それではボードレールは詩から垣間見られる生活をそのまま生きたのかと訊ねられれば、否である。生身のボードレールと詩人ボードレールとは差異があるということだ。つまりボードレールには、信念としての確固たる詩人像があり、それに近づけようとすべての私生活を代価に生きたということに他ならない。詩を追い求めて彼自身が牽引されているのだ。しかるに彼の詩の栄光のうしろに詩人の存在を感じさせることになる。このことは、彼の美術評論「生活する画家」の「現代性」の主張と関係づけることができる。詳しくは私の評論『自己への配慮と詩人像』の後半部で探求することになる。ここでは気ままな感想を述べるにとどめておこう。

「照応」と「高翔」では詩法の一端を告知し、「敵」と「不運」では詩人の生きた過程における困難さを垣間見せる。「Ma jeunesse ne fut qu´un ténébreux orage」というロマン主義的表現で読み手を引き込むが、ボードレールはそこを超え、夢の世界に安住しない。「O douleur!  ô douleur! Le Temps mange la vie」(おお、苦痛よ! おお、苦痛よ! 「時」が命を喰らうのだ)と詩人の苦悩の叫びをあげる。永遠をこの世に開示させようとする悲痛な叫びである。「L´Art est long et le Temps est court」(「芸術」は長く、「時」は短い)という詩句は実感をもって迫ってくる。「人間と海」では、海と双生児である人間の心の深淵に荒れ狂う海のイマージュが、そこに巣食う獰猛な、殺戮や自らの死も辞さない獣性を鏡のように映し出す。私にはゴヤの「巨人」が憶い起こされる。「読者へ」は『悪の花』の冒頭に置かれた詩である。ほんとうは詩集をすべて読んだ後で読まれるべきものであろう。初めて読んだ弱年には理解できなかった。しかし、ボードレールの『悪の花』の構成は完璧である。人は「あほうどり」や「通りすがりの女」といった分かりやすい詩から足を踏み入れることもあるだろう。重厚な密度の高い言葉で叩き込む詩の後にそれらは置かれている。しかしそれらの詩は質において劣るという意味ではなく、愛すべき詩という意味で親しみやすいのである。「読者へ」では、人間の「愚かさ、過誤、罪、吝嗇」が、この世の「悪」へと導いていくという。私たちは、悔恨と悔悛を繰り返しながら地獄への階段を一段一段降りていくというのだ。しかし、ボードレールの真の偉大さは、生を営む私たちの内部に宿る悪=欺瞞を暴き出し、「私の同類よ! 私の兄弟よ! と言い放つところにある。つまり、形而上学にとどまらず、至高なる精神と俗なる現実、「不易と流行」の一致をこの地上に花ひらかせようとするところにある。

「灯台」では、ルーベンス、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ゴヤ、ドラクロアといった画家の描き出す世界においても同様に、ボードレールは人間の悪の主題をを読んでいる。「これらの讃歌は、千の迷宮を潜りぬけて繰り返される、同じ一つの木霊に過ぎない。これぞ死すべき人間のための、神から贈られた阿片」とまで言い放つ。人間の悪から発する叫びは「千の拡声器で送られる指令」「深い森で道に迷う猟師の叫び声だ」という。そうした、数々の芸術家が暴露するその眼差しは悪を照らし出す灯台の光なのだ。最終連においても、ボードレールの同類意識は退席しない。彼は神にささやく。芸術家が描き出す人間の悪は「われらが自らの尊厳を自らに与えるという証」であり、「そなたの永遠の岸辺」で死すべきもの=人間の証なのだと結んでいる。

「夕暮れの諧調」では音楽と詩の形式の合体が試みられ、言葉の響きが繰り返される波のように流れてゆく。「秋の歌」では、「もうすぐ冷たい暗闇へ、私たちは身を投げ沈むだろう」という衝撃的な一行から始まる。plongerという語が印象的だ。「不運」の一行、「時が命を喰らうのだ」が根底に響きわたっている。燃える薪の崩れる音に「棺に釘を打つ音」を重ねて聴き、過ぎ去る時の儚さに感じ入るが、一方では「出発を告げるように鳴り響く」という。過ぎ去る時への郷愁と未知なる時への旅立ちがボードレールには共存している。その引き合う力は互いに増大していく。この詩では過去への想いに強く引かれ、「晩秋の、黄色く心地よい陽射し」を浴びて愛するひとに慰められたいという願望にとどまる。その「たゆたう」心に音楽が彼に与える気だるい逸楽を身に受けようとする。

「白鳥」は長さもさることながら大作であり、彼の主張する「現代性」(モデルニテ)が、「通りすがりの女へ」とともに明確に示された詩である。詳細は「詩人像」で追究することにするが、神話上の人物の身の上と、現実のパリの路上に登場する白鳥のイマージュの二重性によって、オスマン計画によって急速に変わりゆくパリを想い、憂愁の思いに浸る詩人がいる。しかしそれで終わらないのがボードレールの凄さである。パリで見かけたアフリカ女を登場させて自然と都市を対比させ、「花々のように萎れてゆく痩せた孤児たち」maigre orphelins séchant comme des fleursに詩人は想いを馳せる。「ふたたび見出されないものをすでに失ったすべての人たち」A quiconque a perudu ce qui ne se retrouve /Jamai.jamai! á ceux qui sabreuvent de pleur ……とつづく。最終連では、「島に忘れられた水夫たちを、囚人たちを、敗者たちを! さらに他の多くの者たちを!」にまで思いをめぐらすのだ。私はほとんど言葉を失いそうになる。ボードレールには詩人がなすべきこと、比喩的にいえば、神から与えられた「使命」と呼んでもいい詩人像がある。「通りすがりの女へ」は「あほうどり」と同じく、小品だが愛すべき詩だ。「白鳥」の詩にある、Dont le regard m´a fait soudainement renaîtreというフレーズを「彼女の眼差しで、私はとつぜん真実、われに目覚めた」と訳したのだが、適切な表現であったか心もとない。そうした理由には、状況はまったく異なるが、かつて私はグラナダのアルハンブラ宮殿の「裁きの庭」を訪れたとき、一種の感動といえようが、ほんとうのわれに目覚めた、私の深部に内在する「ほんとうの我=他者」に出逢えたという実感をもったという体験があったからである。(私の第五詩集『砂漠のカナリア』所収)。

 思いつくままに、『悪の花』第二版の順序によらずに試みた翻訳であったが、振り返れば私なりの理由があったことがわかる。ここではそれは言わないでおこう。次の詩群は、ボードレールの詩人像が強く浮彫りにされるいくつかの詩、まずは「祝福」から取り上げてみよう。

 

copyright 2013 以心社

無断転載禁じます。


コメントを投稿