ヒーメロス通信


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ボードレール「旅」 『悪の花』小林稔訳詩より

2016年01月23日 | ボードレール研究

20 旅

        ボードレール「悪の花」より

   小林稔 訳

 

      マクシム・デュ・カンへ

  

    一

 

地図と版画の大好きな少年にとって、

宇宙は旺盛な食欲に等しいものだ。

ああ! ランプの光の下では、世界のなんと大きいこと!

追憶の視線の下では、世界のなんて小さいこと!

 

ある朝、おれたちは船出しよう、脳髄を焔でいっぱいにして、

心は恨みと苦い欲望で膨らませ、おれたちは行こう、

波の律動に随いながら、有限な海の上に

おれたちの無限を揺すりながら。

 

ある者たちは、卑劣な祖国を喜び勇んで逃亡し、

他の者たちは、揺籃の土地を怖れから、そしてある者たち、

女性の眼の中に溺れた占星術師たちは、

危ない芳香を放ち、抗しがたいキルセから逃げ去る。

 

獣に換えられないように、彼らは

空間や光や真っ赤に染められた空に陶酔する。

彼らに噛みつく氷、赤胴色に灼く日光が

キスの痕跡をゆっくり消していく。

 

しかしほんとうの旅人とは、ただ旅立つために旅立つ人

心は気球のように軽く

己の宿命からは絶対に離れられないのに

なぜかも知らずいつでもいう、「行こうぜ!」

 

欲望が雲の形を持つその彼ら

新兵が大砲の夢を見るように

気まぐれで未知の、人間の精神が決してその名を知らなかった

とりとめのない逸楽を夢みている!

    二

 

おれたちは恐ろしいことに模倣する! 

ワルツに踊る独楽と跳躍する毬。睡眠の只中でさえ

好奇心がおれたちを拷問にかけ、おれたちを転がす、

太陽の光をたたきつける天使のように。

 

奇妙な運命よ、目標は移動し、どこにもないから

どこでも構わないのだろう!

決して倦むことのない希望を持ちつづける人間が

休息を見つけるために、狂人のように絶えず駆け回る運命よ!

 

おれたちの魂は、理想世界を探している三本帆柱

ある声が甲板の上に鳴り響く、『眼を開け!』

檣楼の上の、熱烈な、狂気の声が叫ぶ、

『愛よ……、栄光よ……、幸福よ……』地獄だ、暗礁だ。

 

見張りの男が知らせる、それぞれの島は

運命の女神によって約束された黄金郷エルドラドだ。

宴会を仕掛ける想像が見出すのは

朝の光の下の暗礁ばかりだ。

 

おお 幻想の国々に恋い焦がれる哀れな男よ!

蜃気楼が渦流の潮をより苦くする

この酔いどれの水夫、アメリカの発見者を

鉄の鎖で縛り、海に投げ入れるべきではないのか?

 

おなじように、泥に足を取られた老いぼれた流浪者が

空を仰ぎ、輝く天国を夢みている。

魔法をかけられた眼は逸楽の都カプアを見つけ出す、

蝋燭があばら屋に蝋燭が灯ってさえいればどこにでも。

 

 

    三

 

驚くべき旅人よ! なんと気高き物語を

海のように深いあなたの眼の中におれたちは読み解くのか!

あなたの豊かな記憶の小箱をおれたちに見せておくれ、

星と精気でつくられたその素晴らしい宝石を。

 

おれたちは蒸気も帆もなく旅に出たいのだ!

牢獄の倦怠を晴らすために

画布のように張られた、おれたちの心の上に

水平線を額縁として、あなたの想い出を通過させよう。

 

話しておくれ、あなたは何を見たのか?

 

 

    四

 

               『おれたちは星を見た。

波を見た。おれたちは砂も見た。

多くの衝突と思いがけぬ災厄にもかかわらず

おれたちは今と同じ絶えず倦怠に襲われた。

 

紫色の海の上に姿を見せる太陽の栄光は、

沈みゆく太陽の中の都市の栄光は、

おれたちの心の中の、魅惑的に反射する天空に

身を投じたいという不穏な熱情に火をつけた。

 

この豊かさこの上ない都市も、この壮大なる風景も

偶然が雲を用いて作る、神秘的な魅力を

決して持ったことはなく、それゆえに

いつも欲望がおれたちを不安にした。

 

――享楽が欲望に力を与えている。

欲望よ、快楽を栄養にする老いた樹よ、

樹皮が厚くなり、固くなる間に

おまえの枝は、もっと近くに太陽を見ようと切望する!

 

おまえは絶えず成長するのか? 糸杉より根強い大樹よ。

――だが、おれたちは入念に、貪欲なあなたたちのアルバムのために

いくらかの素描をむしり取って来たのだ。

遠くから来るものはすべて美しいと思っている兄弟たちよ!

 

おれたちは象の鼻をした偶像に敬礼した。

喜ばしい光を星のように散りばめた玉座も見た。

おまえたちの銀行家には破産の夢であろうそれ

精巧の限りをつくした宮殿を見たのだ。

 

眼を陶酔させる衣裳の

歯と爪が染められた女性たちと

蛇が絡みつく、絶妙な曲芸師をおれたちは見たのだ。』

 

 

    五

 

それから、それからさらに何を見た?

 

 

    六

 

     『おお、子供みたいな頭脳を持つ人々よ!

 

一番大切なことを忘れぬため、

おれたちは見たのだ、好んでそうした訳ではないが

あらゆるところ、宿命の梯子の上から下まで、

不滅の罪の退屈きわまりない光景を。

 

女よ、いやしくも傲慢な、愚かなる奴隷。

冗談でなく自己崇拝し、嫌悪もせずに自己を愛する。

男よ、貪欲で好色、頑固で貪欲な暴君。

奴隷に仕える奴隷、排水溝に流れこむ溝。

 

快楽を享受する死刑執行人、泣きじゃくる殉教者、

流血が味をつけ香りをつける饗宴、

専制君主の神経を苛立たせる権力の毒物。

痴呆にさせる鞭を熱愛する民衆。

 

おれたちのそれによく似た数々の宗教は

皆、天国によじ登る、聖性の徳というものは、

気難しい男が、まるで羽根の寝台にでも寝転ぶように

悦楽を求めて針や釘の寝床にうずくまるようなものだ。

 

おしゃべりな人類は、自らの才能に酔い痴れ、

昔そうあったように今も愚鈍で、

怒り狂った断末魔、神に叫んでいる。

「おお わが同胞よ、おお わが主よ、おれはおまえを呪う!」

 

それほど愚鈍でない奴ら、狂気を愛好する大胆な奴ら、

運命に封じ込まれた大群衆から身を引き、

広大な阿片の夢の中に逃げ込んで!

―地球全体の永遠の報告書とはこのようなものだ。」

 

    七

 

苦々しい知識よ、旅から引き出すそれは!

世界は単調で小さい、今日も

昨日も、明日も、いつも、おれたちにおれたちの姿を見せる。

倦怠の砂漠の中にある、恐怖のオアシスだ!

 

出発すべきか? 留まるべきか? 留まれるなら、留まれ。

必要なら出発するがよい。ある者は走り、ある者は蹲るが、

注意深く不吉な敵、「時」を欺くため!

なんと、休みなく奔りまわっている人たちがいる、

 

さまよえるユダヤ人のように、使徒のように

彼らには、この恥ずべき闘士から逃げるためには

車も船も十分ではない。他の者たちの中には、

揺籃の土地を去ることなく、「時」を殺すのを知る者もいる。

 

ついに「時」がおれたちの背骨を足で踏みつけるときに

希望を持ち、「前進!」と叫ぶことができるだろう。

シナを目指して昔、おれたちが出発したときと同様に

沖に眼を釘づけ、髪を風に靡かせ、

 

おれたちは乗り出そう、冥府の海に

若い乗客のようにこころ弾ませて。

聞こえるだろうか、可愛いらしく、陰気なこの声が。

「こっちへおいで、食べたいと思うあなたたちよ、

 

香り高いロータスを。あなたたちのこころが欲している

奇跡の果実を摘み取るのはここだよ。

永遠に終わることのないこの午後の

不思議な甘さに酔い痴れてみないか?」

 

なれなれしい口調で、おれたちは幽霊を見抜くことができる。

あそこにいる、おれたちのピラドたちは、おれたちに腕を差し出す。

「あなたのこころを爽やかにするため、あなたのエレクトラの方へ漕いで行け。」

昔、おれたちが膝に口づけした女が言う。

 

    八

 

おお 死よ、老いた船長よ、錨を揚げる時が来た!

おれたちはこの国に飽き飽きしているのだ、おお 死よ! 出航だ。

空と海が墨汁のように黒いとしても

おれたちのこころはおまえも知るように光明に満ち溢れている!

 

おまえの毒をおれたちに注いでくれ、おれたちに力を取り戻させるために。

その火焔におれたちは脳髄を烈しく焼かれ、おれたちは望んでいる

深淵の底に身を投げることを、地獄であろうと天国であろうと、どこでもよい。

未知なるものの奥底に、新しさを見出すために!

 



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