ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

『萩原朔太郎」論 小林稔評論集『来るべき詩学のために(二)』2015年刊に収録

2016年01月14日 | 萩原朔太郎研究

平成十四年から「現代詩の源流をさぐる」というテーマで、ワークショップを開き、毎月一回小林稔が講義をしてきました。「近代詩からの百年」「現代詩はなぜ一般から敬遠されるのか」現代詩の源流を江戸時代の俳文や行分け詩に求められないか」「萩原朔太郎研究」「金子光晴研究」「西脇順三郎研究」「戦後詩を読む」を解説していきました。今回、ブログ「ヒーメロス通信」において個人誌「ヒーメロス」に発表した四回分の論文「萩原朔太郎研究」を公開します。
無断で転載することを禁じます。


2004年個人誌「ヒーメロス」6号から転載

小林 稔


平成十四年十二月第三回「ひいめろすの会」報告
萩原朔太郎研究第一回
 
 この会では創作批評と勉強会を併行して行なってきました。日本近代詩百年の詩史を概観し、その出発時のおける新体詩が、いかに以前の日本の詩歌を拒絶し、海外の詩に影響を受けていたかが理解されたことと思います。やがて島崎藤村らによって日本の詩が生まれ始める。そしてそれ以後、口語詩の潮流が起こるのである。川路柳虹の詩がその最初とされ、また三富朽葉や大手拓次によって朔太郎以前に優れた口語詩は書かれていた。それなのになぜ朔太郎を口語自由詩の完成者というのであろうか。そこには大変重要な問題があるのだ。それは追って報告することになるのであるが、朔太郎を研究することによって、われわれは詩の総体像を見ることになるのではないか。なにより朔太郎自身が詩の広範囲な領域を悩み考え記述した詩人であるからである。また彼の詩法の変遷も興味深い。

 今回、「朔太郎小伝」(佐藤紘彰氏)よりまとめた二枚のプリントを配布した。それによると、一八八六年群馬県前橋で、裕福な医者の長男として生まれたとある。その甘やかしは普通のものをはるかにこえたものであった。母ケイの朔太郎に対する影響は非常に強く、人生とその作品における様々な要素はケイを抜きにしては考えられない。朔太郎は三十三歳と五十二歳の時に結婚している。                         
 与謝野晶子の歌集「みだれ髪」が出た一九〇二年に、短歌に興味を持ち始める。北原白秋や啄木の影響はあるものの、特筆に値するものはないという。一九一三年室生犀星に手紙を送ることがきっかけで白秋の編集する雑誌に詩を採用された。一九一四年、高村光太郎、大手拓次、山村暮鳥と知り合いになり、この年、人魚詩社を設立。雑誌「異端」発足させる。朔太郎が歌人から詩人に脱皮した年であった。一九一五年、「卓上噴水」を創刊。詩的に最も多産な時期であるが、精神錯乱の時期が対応している。一九一七年第一詩集「月に吠える」が出版された。「病気をおそるる病人」の印象と、そのような病人の瞑想するイメージのあらわな表出。明確なものを何ら指し示すことなく底深い不安を暗示する力で読者を驚かし続けた。一九二三年第二詩集「青猫」を出版した。創造力に富む時期はここで終わるとされる。

 これら朔太郎の初期の詩集を読む時、忘れてはならない朔太郎自信の次のような言葉がある。
「月に吠える」自序より
「詩は一瞬間における霊知の産物である。ふだんにもっている所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとっては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。」
「友人高橋元吉への弁」大正六年四月十七日より
「小生は自作の詩に対しては創作当時はほとんど盲目であって、自ら如何なることを唄っているかさえ知らない。どんな思想をどんな感情を時分自身でもっているのか、自ら何事を書こうと試みているのか、全く無我夢中です。ただ心の底をながるる一種のリズムを捉えて無自覚にそのリズムを追っているにすぎない。それゆえ創作当時における自身は半ば無意識な自動器械のようなものにすぎない。」

 このような言葉を読む時、私に想いおこされるのはアルチュール・ランボーのポール・ドメニーに宛てた手紙である。ランボーの意識的な激しい口調に及ばないが、一言で言えば錯乱の詩法である。
「だって、ぼくは今や、別人として存在しているのですからね。銅が目覚めたときらっぱになっていても、まったく銅が悪いわけじゃない。このことはぼくには明々白々です。ぼくは思想の開花に立ち会っているんです。┊詩人たらんとする人間がまずなすべき仕事は自分自身を認識することです。┊重要なのは、怪物的な魂を作りあげることなんです。┊詩人は、あらゆる感覚の、長期にわたる、途方もない、体系的な乱用によって、おのれを見者に作りあげるのです。彼は、自分自身を探り、自分のなかのいっさいの毒を汲み尽し、その精髄だけをとっておく。」(以下省略)
 あるいはアンドレ・ブルトンのシュルレアリズム宣言を想いおこされるのである。しかし、後半期の朔太郎は変遷する。その変貌が二十一世紀のわれわれの詩に何を示唆し、何を示唆しないのか、私には興味が尽きないのであるが、先を急がずに、まずは彼の詩をじっくりと読み、そこから浮上する問題点を取り出してみよう。
 

平成十五年一月「ひいめろすの会」報告
萩原朔太郎研究第二回

 朔太郎という詩人の全体像が、彼の著作、彼についての批評を読むにつれて明らかになり、私には大変興味深い詩人に思われた。彼の想念する詩の領域が広範囲であり、より深い、つまり根本的なのである。そして彼の肉体を通してポエジーのほとんどすべての問題が浮上してくる。詩と真正面から格闘した一人の詩人の姿が見えてくる。
那珂太郎は「月に吠える」の前半期の問題、という論文で「詠嘆的抒情表白なしにヴィジョン自体をほとんど裸形のまま提出するといった方法は朔太郎自身の詩的経歴の中でも極めて特異な位置を占めるもの」といい「イマジスチックのヴィジョン」の自立化を「作者内奥の実存意識の表象として「わが国近代詩の歴史における一革命」とさえ書き記した。また、藤原定は「感情」詩派の新風、という論文において,近代詩と現代詩の分岐線を山村暮鳥の「聖三稜玻璃」、萩原朔太郎「月に吠える」の創作活動の開始とのあいだにあるとする。「ヨーロッパにおける二〇世紀初頭の新興芸術の勃興にほぼ相応する質と様相を呈していたということによっても区分される理由を持っている。」「イタリアのマリネッティの未来派宣言、その他表現派やフォービズム、立体派などが起きていた。」「第一次世界大戦勃発前の異常な社会不安、精神文化の動揺による必然的な所産であった。印象主義、象徴主義の芸術を否定しのりこえようとする芸術運動においてヨーロッパの芸術運動に相応するところが多分にあった」という。前回にも私が述べたように、ランボーの錯乱の方法はその先駆的存在である。今日では「イマジスチックのヴィジョン」なるものはすでに部分的にはほとんどの詩人にとって常套になってさえいるが、それのみで書かれた詩の行為とは次元を異にするのではないか。シュルレアリズム以前にもシュルレアリズム的手法が存在するように、ここでも意味が違うのである。シュルレアリズムとは全面的な「生」の変革であったという意味において意義がある。
それでは「イマジスチックのヴィジョン」とは何を意味するものなのだろうか。那珂太郎は先の論文で「彼の意識がなおはっきりとは自己規定しなかった自らの魂の内奥の、実存感とでもいうべきもの」といい「思想とか感情とか明確には分かちがたい、未分化の作者の全生命的なものが、異様なまでの幻視力をもって一つのヴィジョンを結像し、一挙にそれが言葉となって生動している感がある」と述べた。つまり詩人と実存の問題が深く関与しているのである。
詩集「月に吠える」において避けて通れない言葉に「懺悔」「祈り」「合掌」などの宗教的な言葉がある。詩集の中の初めの章「竹とその哀傷」十二篇は発表当時「浄罪詩篇」と名づけられていた。佐藤泰正の「朔太郎と神」によると、白秋に宛てた書簡集「若き日の欲情」から「孤独と苦悩のゆえの異常なまでの白秋への傾倒を感ずるとともに病的な感覚の錯乱と不安―彼自身語るごとく、その心身を滅するていの深い危機のあったことを疑うことができない」という。さらに「神経的、生理的幻覚の創造を根底においては病者の歪みとして罪として問い、告白せざるをえなかったところにこそ彼の言う浄罪の真義はあったのではないか。疾患が詩の方法につながり創作の極限的深化への発条とさえなったことは疑いえない」と主張しているのである。「浄罪詩篇」の後、ドストエフスキーを通してキリスト教に傾倒していく。「カラマーゾフの兄弟」の「人間は罪悪を犯す時ほど神のことを思ふことはなく、罪人ほど救いを求めているものはない。」という言葉に救われたと思ったが、直後に救いが幻影であったことに気がつく。人間という孤独な生き物を知り、ますます実存意識を強くしていったに違いない。「人は一人一人ではいつも永久に、おそろしい孤独である。けれども実際は一人一人にみんな同一のところを持っているのである。この共通を人間同士の間に発見するとき「道徳」「愛」が生まれる。私は詩を思うと、はげしい人間のなやみとそのよろこびとをかんじる。詩は病める魂の所有者と孤独者とのさびしいなぐさめである。」と書かれた「月に吠える」の初版の自序にあるとおりである。
「イマジスチックのヴィジョン」に具体的に駆り立てているのは言葉のリズムである。朔太郎は高橋元吉に宛てた手紙で「心の底をながるる一種のリズムを捉えて無自覚にそのリズムを追っているにすぎない」と書いていた。朔太郎自身によるエッセイ「詩と音楽の関係」では次のように書かれている。「詩が真に自覚した光ある芸術となったのは、調子本位を捨ててリズム本位に移って以来である。即ち自由詩形が唱導されて以来の出来事である。自由詩形によって詩人ははじめて完全なる自我のリズムを自由に発現することが出来た。」那珂太郎によれば、『「自我のリズム」というときの「自我」は、表層意識的な個性などよりはるかに深層のものであって、実存の深層に及ぶことによってほとんど普遍的自我ともいふべきところから、彼は言葉のもつ潜勢的いのちともいふべきイメジと音とを直覚的に捉へ得たのであり、そこにこそ彼の作品の「不思議な魅力」の真の理由があった。』言葉の持つ音楽性(色彩、音律、情感など)と言葉の表徴するイメージの融合が詩における音楽なのであり、感覚的というより、感情的、情緒的であることが朔太郎の際立つ特徴である。


平成十五年二月「ひいめろすの会」報告
萩原朔太郎研究第三回

 朔太郎が口語自由詩の完成者と言われながらも「月に吠える」では文語が一部見られ、「純情小曲集「「氷島」においては文語詩に戻っていることはどういうことなのであろうかを今回考えてみた。「月に吠える」以前の最初期の詩は文語詩である。以後、朔太郎詩の鉱脈には文語的表現がとぎれることなく続いていたのであった。
 明治の「新体詩抄」まで遡って考えると、それは日本の俳句、短歌、漢詩などの古典詩に対する反逆であった。生活に視点を定め、西洋の影響を受けながら試みられたのであったが、表現形態は依然として文語にならざるをえなかった。形式と内容の分離が出発点にあったのである。しかし文語から離脱しようと苦悩していた。つまり新しい詩には文語は相応しくなかったというわけである。「反文語的要素は口語自由詩運動以前から、訳詩などでかなり顕在的にかたちを見せていた。詩が日常に堕することを恐れ、格調と文学性、ことに音楽的調べを失うことを恐れて依然として文語詩を書かなければならなかった。そうしたジレンマをみずからの詩の状況として、詩人たちはめいめい自分の言葉をさがしていたのである。」「日常をうたって、しかも日常から離脱し屹立するところの非日常の言語世界、それが詩にほかならないという詩人の意識が、それなりの形式と、言語世界、様式を得ようと欲するからである」(原子朗「文語と口語」)薄田泣菫、蒲原有明の時代から北原白秋、三木露風の時代に移ればより口語に近い文語になっている。そう原氏は指摘して亜文語詩と名づける。また、原氏は、口語詩の第一作として評判を呼んだ川路柳虹の「塵溜」を、文語を捨てた代わりに定型を取ったとする。そして上田敏の訳詩は文語を守る代わりに定型を捨てたという。明治四十三年ごろに朔太郎は詩作を始めているが、すで大手拓次らによって多くの口語自由詩が書かれていたのであった。「詩の価値はその詩が文語体であるか口語体であるかによって決まるものではない。」「朔太郎は、文語と口語のの具体的な例ということになるが、現代詩人も、本質的にはそうだと言いたい」と原氏は述べる。さらに原氏によれば、「青猫」は口語文脈のもつ、かんまんな非音律性を逆手にとって、口語表現を文語表現と可能な限り遠い所に置くことによって、かえって一種の音楽性というか、だるいしらべを出すことに成功したといえないか、と主張するのである。
 朔太郎自身の論文「詩における口語表現の不満足」では、「芸術的価値はゼロに近い口語で、芸術的な詩を創造しまければならないぼくらは大きなる過渡期にある新日本の敏かにおける犠牲者である。この素朴的なる猥雑極まる非芸術的の言語を用いて、最も格調音律の美を書こうといふのがそもそもの冒険であり、日本語で詩を書くならばいかにしても文章語を用いるほか、正当には手段がない。新しい文章語はまだ生まれていない。そこでぼくらの時代における詩人の義務は、主としてこの新文章語の創造にかかっている」と書かれている。
 「青猫」論(中桐雅夫著)では、頻繁に使われる語として、憂鬱、さびしい、悲しいなどの語を取り上げ「転喩」という観点から論じている。(例)ぼくのさびしい訪問者は老年の よぼよぼした いつも白粉くさい貴婦人です(悪い季節)この詩の「さびしい」は訪問者を修飾する語であるが、実際は作者が「さびしい」ということを言っているのだと指摘する。また、直喩の用い方「┋のように┊」は二重三重の複雑な意味や気分を出すための技巧であるという。
 南洋の日にやけた裸女のように
 夏草の茂っている波止場の向うへ
 ふしぎな赤錆びた汽船がはいってきた(題のない歌)
「南洋の裸の女は、文法的に、第三行の赤錆びた汽船を修飾するだけでなく南洋の島に日にやけた裸の女がいる。そして夏草の茂っている波止場の向うへ、ふしぎな三行の赤錆びた汽船がはいってきた」という意味にも取れると論じている。
 今回は詩人の実存意識についても考えてみた。初期の詩篇「旅上」「浜辺」「こころ」などの詩に現われている生の意識を追っていくと、まず初めに、少年期の社会からの疎外感が浮き上がってくる。そこから遠い世界への憧れが生まれる。「ふらんすへ生きたしと思えどもふらんすはあまりにも遠し」「こころは二人の旅びと されど道づれのたえて物言ふことなければ」などを引用して、河村正敏「悔恨人の抒情」を参考にしながら実存意識が生じてくる過程を考えた。自分のこころを一人の他者と見る自意識の眼が「外部世界からの疎隔の意識」「自己乖離した自意識」「被虐的な自己愛」となりはるかな世界に対する浪漫的な憧れをさそっていたのであった、と河村氏は論じる。「なにゆえの若さぞ この身の影に咲きいづる時無草もうちふるへ 若き日の嘆きは貝殻をもてすくふよしもなし」(「浜辺」より)その影のあまりの孤独さに驚き、遠い世界を思わずにはいられない。朔太郎の私的生涯はボードレールと同様に、時間の外への逃亡の繰り返しであったと河村氏は展開する。しかし、これら初期詩篇から、自らの影を吠える「月に吠える」の詩篇に向かうには、かなりの飛躍があるのではないか。憧れは一変して強迫観念に摩り替ったようである。「ぬすっと犬めが くさった波止場の月に吠えている」この遠吠えもはるかな郷愁の声にほかならないと河村氏はいう。また、白秋にあてた書簡集「若き日の欲情」「浄罪詩篇ノオト」を読めば、二十代後半の朔太郎が、「人は何のために生まれてきたのか」といった問題にいかに苦悩したかが分かるだろう。「月に吠える」は生の実体に触れえないところからくる自虐的な生の確認であった、とも分析している。ところが「青猫」においては運命を運命として甘受するようになる。情念のまぼろしを自由に呼び寄せ、エロスの夢にふける。(河村氏)「青猫」の序文で朔太郎はこう述べる。「私の真に歌おうとするものは、あの艶めかしい一つの情緒である。それは感覚ではない、激情でない、興奮でない、ただ静かな霊魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い実在への涙ぐましいあこがれである。その笛の音こそプラトオのエロス、霊魂の実在にあこがれる羽ばたきである。それのみが私の「音楽」である。私の詩の本質はあの実在の世界への故しらぬ思慕の哀傷である」
 私の個人詩誌「ひいめろす二号」で、かつて私はプラトンの「パイドロス」のイデアの世界を論じたことがあったので、及ばずながら解説を試みた。それはさておき、「青猫」の夢も醒めれば索漠とした現実が詩人を包み込んで、いっそうの絶望の深みに落ちてしまうのだ。そこで、現実に対する反逆心が鋭く立ち上がってくるのだ。朔太郎は詩を書くことと併行して、夥しい量のアフォリズムやエッセイを残している。「純情小曲集」から「氷島」へと詩篇は移行する。この二つの詩集は文語詩へと戻っていることをどう考えるべきか。アフォリズム集「虚妄の正義」の次のような激しい文は、この二つの詩集の基盤であろう。「仏陀となって、自ら宿命の上に超越するか、もしくは仏陀そのもの―――すなわちあらゆる悟ったもの、納まったもの、平和なものを敵として、残虐の意志の悪い快楽から、ニヒルの歯ぎしりをして戦ふかである」河村氏によれば「青春の日、生の不安をそそられたあの時間のさけ目の中に、つまり、初めも終わりもない永劫回帰があるだけの虚無の時空に、生の深淵と向き合って生きなければならなくなったということである。人生が虚妄である限り、何ものをも失うはずがない。失うことさえ失われたという絶望的な喪失があるばかりである。人生は過失でしかない。悔恨だけがただ一つの実在となる。思えば遠い廻り道。何も変わっていないのだ。この地上が時間の外だったのである。」朔太郎がこのような心情を詩にする時、口語体ではなく文語体で書くことになったのは、口調の激しさを表わすために当然のことではないだろうか。朔太郎のように自らを変遷させて行く詩人を私は他に知らない。詩はおそらく文学というカテゴリーに穴を空けてしまうものに違いない。真の詩人は、その生に文学の虚構性を重ね合わせてしまうからである。ポエジーという一詩人をはるかに超えた彼方からの照射に、彼の人生のもろもろの経験が応えるのである。詩人は人生に敗北するだろう。彼からあらゆる「私」を奪い去ることによって。そのことが彼を栄光の座につかせることになる。詩はその時、星辰のように天蓋にきらめくだろう。
朔太郎は「氷島」の序文でいう、「著者の過去の生活は、北海の極地を漂い流れる、わびしい氷山の生活であった。その氷山の嶋嶋から、幻像のようなオーロラを見て、著者はあこがれ、悩み、悦び、悲しみ、かつ自ら怒りつつ、空しくも潮流のままに漂泊して来た。」と。彼の詩は、今も私たちの詩に多くの問題を投げかけている。


平成十五年三月「ひいめろすの会」報告
萩原朔太郎研究第四回

 すべての必然的なものは現実的であり、すべての現実的なものは理性的である、というヘーゲルの言葉を引用して、朔太郎の一九三七年「詩人の使命」の「理性に醒めよ」という章は始まる。詩集「氷島」出版三年後にこの評論集は世に出された。二〇〇三年の今日、日本の文学は変わったか、と自問自答するならば、否である。今もって日本文学の脆弱さに対して朔太郎の主張は有効であると私は思う。まずそこでなされた彼の真摯な訴えを要約する。
「日本における、すべての詩壇的なものは喜劇的であった。」なぜなら外国の模倣であり全く別物であったからである。ダダイズムしかりシュルレアリスムしかりである。「要するに日本の詩という文学は、現実する生活や文化と交渉なく、趣味性の観念上で遊戯しているところの、本質的ジレンタンチズムの文学に過ぎないのである。」つまりは必然性に欠け、現実性がない。「この一切の原因は、真の理性的判断力を持たないことに帰着する。」日本の自然主義の文学においても同様である。「社会的必然性がなく、非現実的に遊離している」ということになる。西欧近代化は日本が避けて通ることにできなかった宿命である。ならば、「理性に醒めよ」と朔太郎は叫ぶ。「本質に人生探求のヒューマニチイと、イデアやモラルを持たない所の文学は、所詮して皆趣味の遊戯であり、新しさの香気を悦ぶダンヂイの流行にしか過ぎないのである。」
 現代のわれわれの詩はどうなっているのかについては、今後、朔太郎の視点から考えて見なければならないことである。趣味性に陥る危険は考慮すべきであるが、一方では西洋の現代思想が流入され、深く考察されている。そうした理論のもとで詩作をする詩人も現れてきている。しかし朔太郎が言うように、日本においてシュルレアリズムが存在しなかった(皮肉でいえば生活的現実性がないことでは皆シュルレアリストであったが)ことは、それ以後の変化した西洋詩の一見同じ土壌の上に立っていると考えられがちな現状で、留意しなければならないことであろう。無論、日本の近代詩が蒙った歪みとしての西洋も理性を持って顧るべきである。私の言いたいことは、朔太郎の「氷島」とそれ以後の評論、散文詩の意義を考えなければならないということである。右で取り上げた朔太郎の指摘は、現代においても完全には払拭されていないと思うからである。今回のテーマは「氷島」であるが、萩原朔太郎の全体像を考えた時の、この詩集の持つ意味は今日でも定まっていないように思えてならない。かつてどのように受け入れられ、あるいは受け入れなかったかを資料をもとにして考えてみた。
篠田一士『詩的言語』の「氷島論」では、「氷島」を前にした時の当時の詩人たちの当惑を挙げる。「月に吠える」「青猫」「蝶を夢む」の、自由で大胆な口語詩形の実験とかがやかしい成果のあとにどうして文語詩形が用いられたか、という驚きである。全二十五篇のうち四篇は「純情小曲集」からの再録であり、十年ほど隔てて書かれた他の詩篇が編まれている。篠田一士によると、同時代のモダニズム詩人たちと本質的な対立がない、つまり、いつわりの詩的言語を真正の詩的言語に変貌させたということになる。「氷島」の詩的言語そのものがぼくたちの経験に直に訴えるところのものである、と言う。会では、彼の分析によって、「漂泊者の歌」を読んでいった。(詳細は省略)
 
 この紙面では私の解釈を若干試みることにする。漂泊者とは誰か、それは実存を意識し孤立せざるを得なかった、社会から締め出された一詩人の像である。朔太郎その人の人生を直接に結び付けてはならない。朔太郎が描いた詩人像なのである。あくまで彼の脳裡を過ぎった普遍的な詩人の姿であり、それを自分に重ねているのだ。前回、「悔恨人の抒情」河村正敏著をもとにして解釈を試みたように、彼の少年期に世界と自分との弧絶感といったものが生まれた。自己を見つめるもう一つの目にいつもつきまとわれている。そこに固着しようとする詩人の意識がある。詩の主題として、むしろ積極的に望んでさえいる。「孤独な自意識は、人が時間というものの、重みを感ずる最初の経験ではないだろうか。」Out of the world ! と叫んだボードレールのように時間の外への逃亡を想うのであった。「イマジスチックなヴィジォン」というものも、言語世界への逃亡と考えられよう。それはまた一方では悔恨を引き起こす。そして「月に吠える」の「懺悔」「浄罪」などの言葉になって表わされた。「青猫」では、逃亡に敗退した詩人の憂鬱、プラトンの霊魂のノスタルジックな世界を唯一の慰安とする退廃的な気分に遊ぶのであった。だが理性の詩人、朔太郎はそこにとどまることなく、あくなき探究心に駆られ、現実的な姿勢を崩さない。私が朔太郎にひかれる所以である。夥しい量のアフォリズム、エッセイが彼の理性の根源である。絶望的な状況に身を置くことをためらわず、文明のみならず人生の虚妄をを暴きたて、その運命を生きようとするのだ。ニーチェと接触するところである。ここに「氷島」は存在している。「我は何物をも喪失せず また一切を失い尽くせり」という詩行は、「人生が虚妄である限り、何物をも失うはずがないからで、失うことさえ失われたという絶望的な喪失があるばかり」ということであろう。よくよく考えれば、この世界こそ時間の外だったのである。「漂泊の歌」の最終行「汝の故郷は有らざるべし」に篠田氏が「解放感」を読むのも同感するところであるが、「われは餓えたりとこしえに 過失を人も許せかし。過失を父も許せかし。」と終える「父の墓に詣でて」の最終行には、最期まで悔恨から断ち切れずに終えた詩人の宿命が浮かび上がってくるではないか。「氷島」が私に教えるものは、「普遍的な詩人像」である。「異邦人」や「ノマド」にまつわるイメージなのである。今日こそ、詩人の特性を浮かび上がらせ、彼らの人生への深い考察を社会的役割に還元すべき時ではないだろうか。 



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