ヒーメロス通信


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朔太郎『月に吠える』と浄罪詩篇

2016年02月13日 | 萩原朔太郎研究

『月に吠える』と浄罪詩篇

 詩人萩原朔太郎を論じる上で始めに置くターム(項目)が短歌からの離別であるとすれば、次に論ずべきタームは、『月に吠える』前半の「浄罪詩篇」と呼ばれる二十余篇を貫く宗教にかかわるものであろう。なぜなら、本来、詩の発生と宗教や哲学の発生の場が同じと考えることができるし、朔太郎の詩人としての有り様と深く繋がっているからである。佐藤泰正氏は、「朔太郎における神」という論考(萩原朔太郎研究/三弥井書店)で、那珂太郎氏の「おそらく日本ではじめて実存の深部をヴィジョン化した『魂の抒情詩』」という言葉と、朔太郎自身の「もし永久に私が信仰を発見しなかったら、私は永久に『苦しき懺悔者』又は『素人詩人』として終わるにちがいない」という言葉を引用して、詠嘆的抒情表白「愛憐詩篇」の直後に、「竹」などの見られる「イメージ自体を裸のまま提出する方法」に転換したのはなぜかを問い、山村暮鳥の「聖餐稜玻璃」の朔太郎に与えた影響を指摘する。しかし佐藤氏は、那珂氏のいう、「浄罪詩篇」の「懺悔」「祈り」「合掌」などに見られる宗教性は、「語彙の問題に過ぎない」という言葉に反論している。また、伊藤信吉氏のいう、浄罪の意識ではなく「浄罪を思考した」「信仰を思考した」に過ぎないとする言葉にも疑問を投げかけ、佐藤氏は「朔太郎のもっとも血肉的に本質的なものが、そこに集約的に噴出した、ひとつの特定な時期を表わしたものである」という渋谷国忠氏の論述を紹介している。だが、朔太郎の宗教性を「上層意識的なもの」と捉える一方で、「ぎりぎりの深層からの表出という実存性なるもの」とする、つまり「文学性」と「宗教性」の二元的な把握に対しても佐藤氏は異を唱えている。

「浄罪詩篇ノート」の中の「浄罪詩篇、奥附」という二篇のうちの一つ、「偉大なる懐疑」の「疾患」という言葉に佐藤氏は注目する。

 

 主よ

 あきらかに犯せるつみをば

 あきらかに犯せるつみとそらしめ給へ

 聖なる異教の偶像に供養せることをばあかしせん

 みちならぬ姦淫のつみをばあかしせん

 しかはあれども

 我は主を信ず

 我は主を信ず

 まことに主ひとりを信ず

 かかる日の懺悔をさへ

 われが疾患より出づるものとしあらば

 すべて主のみこころにまかせ給ひてよ

 しかはあれども

 われは主を信ず

主よ

あきらかに犯せるつみをば

あからかに犯せるつみと知らしめたまへ

          ―浄罪詩篇、奥附―

 

〈かかる日の〉切なる〈懺悔をさへ〉それがみずからの〈疾患より出づるもの〉ならば〈すべて主のみこころにまかせ給ひてよ〉と念ずる――その砕かれた魂の真摯なる表白こそ注目されねばならないと佐藤氏はいうのである。ならばこの懺悔とは何かは問われなければならず、「疾患」という言葉の意味が問われなければならないと佐藤氏はいう。

詩誌「ヒーメロス」32号2016年2月4日の記事から



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