ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「朔太郎における短歌から詩作への転向」 小林稔

2016年01月28日 | 萩原朔太郎研究

萩原朔太郎における短歌から詩作への転向

小林稔

 

筑摩書房版『萩原朔太郎全集』(全十五巻)を編集していた那珂太郎氏は、最後の十五巻目の編集のときに、偶然にも朔太郎の自筆歌集『ソライロノハナ』があることを知ったという。(「国文学」五十三年十月号参照)全集の年譜によると、朔太郎十六歳のときに『上毛新聞』に短歌一首を投稿したとある。その後、ペンネームで『明星』などに数多く投稿している。二十八歳のときに、この自筆歌集『ソライロノハナ』を制作し、四二三首を収録した。同じ年の同じ月に朔太郎は、北原白秋主宰の『朱欒』に掲載された室生犀星の作品に感銘を受け、手紙を送り交友が始まる。翌月、朔太郎は五編の詩を白秋に送り、同じ詩誌に掲載されることになる。つまり一九一三年、朔太郎二十八歳のときに歌集をまとめ、詩を詩誌に投稿してから、短歌を書くことを辞め、詩を始めたことになろう。那珂太郎氏によると、朔太郎が短歌を書き投稿していたことは知られていたが、与謝野晶子や石川啄木の模倣と扱われ、評価はあまりされなかった。その後、朔太郎はこの歌集を口外することはなかったのであり、この自筆歌集の発見で、朔太郎の短歌に新たな評価がなされるのではないかという。朔太郎の、十六歳から二十八歳までの十二、三年間を短歌時代(千首製作したという)とすると、歌集をまとめたその年に詩作に転向したその理由を考えなければならない。歌集を紐解いていくと、そこから朔太郎自身が告白するように、とうぜん虚構はあるだろうが、自伝として読むことができるように構成されていることが分かる。

最初の章が「自叙伝」と名づけられ、短歌を作り始めた動機と、それから二十八歳までの人生と芸術の葛藤が散文のみで述べられている。「私の春の目ざめは十四の春であった。戀というものを初めて知ったのもその年の冬であった。」という出だしである。「鳳晶子の歌に接してから私は全て熱に犯される人になってしまった」とつづく。「ウェルテルの煩ひ」(恋わずらい)を実体験と文学の相互作用でますます深めていく。朔太郎十六歳のとき、鳳晶子(後の与謝野晶子)の『みだれ髪』が刊行された。「芸術と実生活とを一致させるためにどれほど苦心したか分からない」と朔太郎は書く。文学と現実の恋の接点にある種の「理想」を思い焦がれることはよくあることである。そうしているうちに「芸術が私の生活を支配していくようになってしまった」と述べている。恋愛の主人公である「私」が実生活においても芸術の主人公であろうとする。「これほど痛ましいことはない」という。「恋わずらい」は一層重症化し、「ロマンティックの芸術に対する熱愛」はどこまでも追い求める旅であった。しかし「純美な憧憬の影に、臆病未練な自己嫌悪とか厭生とかいうような暗い心の芽生えがひそんでいること」を見出し、「次第に死とか生とか言ふことを真剣になって考えるようになって」、「段々と私の心からロマンチックの幻影が消えて行った。」ついに「醜い怖ろしいあるものが薄気味悪く笑いながら私の前に跳出した。」と朔太郎は書く。それを「本物の世界」と表現する。本物の文学が絶えず問題視する、事物の暗部に横たわる本質とでも呼ぶべきものであろう。歌人の今野寿美氏は、「萩原朔太郎と晶子・啄木」(「国文学・解釈と鑑賞」2002年8月号)という論考で、「ロマンチックの幻影」の破綻として捉えている。晶子から受けた朔太郎への影響は自身が語るように大きかったが、石川啄木からもまた影響を受けた一人だと今野氏はいう。今野氏によると、晶子から啄木に引き継がれたものは、「われ」の造型意識であり、朔太郎においては彼らよりさらに意識的に造型された主体の姿であるという。『ソライロノハナ』は全体を五つの章に分けられ、(「自叙伝」は序章のような役割を持つ。)初めの「二月の海」は散文と短歌の混合された「歌物語」になっている。残りの四章は短歌だけの構成になっている。「ロマンチックの幻影」が靄がはれるように消え、「本物の世界」がむき出しになると、かつての「ウエルテルの煩ひ」は「昼間のばけもの」ように感じられ、「戀よりも肉を欲した」と朔太郎は書く。それ以後は情欲におぼれる生活を送るようになる。四番目の章の「何処へ行く」がには、それらを描いた短歌が集められている。先述した「ロマンチックの幻影」の破綻から、「本物の世界」を自らの身体によって体得するように、頽廃的な実生活に身を投げ詩という形式に向ったと言えよう。朔太郎にとって歌は「抒情表白」であり、詩は本質を追い求め、実人生を変えうる「行為」の報告であったと私は考える。

 

詩誌「ヒーメロス32号」から一部を紹介。

 


コメントを投稿