ヒーメロス通信


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「人魚詩社」での前衛的な詩作。小林稔・「萩原朔太郎における詩人像(一)」より

2016年02月12日 | 萩原朔太郎研究

 「人魚詩社」での前衛的な詩作

小林稔

 室生犀星との出会いと交流があり、犀星の影響のもとに「愛憐詩篇」が生まれたことは内容的にも十分考えられることである。一九一四年(大正三年)六月に室生犀星、山村暮鳥、朔太郎の三人で「人魚詩社」を設立している。同年、北原白秋主宰の「地上巡禮」が創刊され、朔太郎も作品を発表する。翌年三月には詩誌「卓上噴水」を発刊するが、三号で廃刊になる。この年、山村暮鳥の詩集『聖三稜玻璃』が刊行された。さまざまな詩誌と朔太郎周辺の詩人たちとの交流が見られるが、特筆すべきは、この時期の朔太郎の詩が「愛憐詩篇」とははなはだしく異なるということである。それには山村暮鳥の詩の存在がある。新体詩を出発点にして、北村透谷、薄田泣菫、蒲原有明、三木露風、北原白秋へ展開してきた象徴詩の近代詩が、口語自由詩へと辿る現代詩へのプロセスにおいて、暮鳥、犀星、朔太郎の「人魚詩社」を活動の場とした磁場の意味するところは大きいと言えるだろう。北川透氏は著書『萩原朔太郎〈言語革命〉論』において、犀星と朔太郎の立場は、朔太郎自身が言うようにセンチメンタリズムであったが、そこに暮鳥が加わることによって、《金属の「リズム」》を〈センチメンタリズム〉の場所で加熱することになり、暮鳥への挑戦的な磁力になったと説明している。《金属の「リズム」》とは、「今の貴兄は金属の「リズム」と会話していると思う。金属とほんとに話しの出来る人は今ではあなた一人だ」という朔太郎の暮鳥宛の書簡から引用された、『聖三稜玻璃』に対して評価した言葉であろう。

 吉本隆明氏によると、近代詩が一歩踏み出す兆候を見せたのは、おそらく山村暮鳥の詩集『聖山稜玻璃』においてであったという。白秋や露風らの「後期印象派の特質が、無定型なもやもやとした感覚を言語過程によって実在化しよう試みたのにたいして、感覚的な表象(イメージ)そのものを実在の対象であるかのようにあつかう位相で表現しようとした」と述べている。日本の近代詩ははじめて、「こころの世界も、実在物と同じように、詩人の主体とは仮装的に独立の世界とみなしてあつかうことができるようになり、詩の対象界は、ほとんど無数の可能性としてひらけた」のである。しかし、「後期象徴詩人たちは、あくまでも感覚の世界を、感覚の世界とみなしてコトバによって実在化しようとした」のに対して、「暮鳥は、感覚の世界を実在の世界とみなして言語化しようとしている」。つまり、自己の感覚の世界を、自己の意識とは独立した世界であるように取り出しえることだという。「それは画期的な事件というべきである、なぜなら自己がその中に生活している社会の総体を、あたかも自己の外側の独立した社会として把握できるような思想的段階と対応するものである」からである。この表現段階は朔太郎や佐藤惣之助によっておしすすめられたという。「高度の感覚的な世界の表現が文学的意味と統一され集大成されている」。朔太郎は詩の思想性を獲得していったが、感覚的世界の退化をまぬかれなかったと吉本氏はいう。

このように見てくると、一九一四年は朔太郎にとって重大な転機点となる年であった。「愛憐詩篇」を発表した翌年であるが、詩風は大きく変貌する。このころの朔太郎の心の動きは、全集第十二巻に収録されている「ノート一、二」から知ることができる。『月に吠える』の「浄罪詩篇」と名づけられた「竹とその哀傷」の詩のほとんどが書かれた時期に相当する。

 

 まってゐるのは誰。土のうへの芽の合奏の進行曲である。もがきくるしみ轉げ廻ってゐる太陽の浮かれもの、心の向日葵の音樂。永遠にうまれない畸形な胎兒のだんす、そのうごめく純白な無數のあしの影、私の肉體は底のしれない孔だらけ……銀の長柄の投げ鎗で事實がよるの讃美をかい探る。

 わたしをまってゐるのは誰。

 黎明のあしおとが近づく。蒼褪めたともしびがなみだを滴らす。眠れる嵐よ。おお、めぐみが濡らした墓の上はいちめんに紫紺色の罪の靄、神経のきみぢかな花が顫へている。それだのに病める光のない月はくさむらの消えさつた雪の匂いに何をみつけやうといふのか。嵐よ。わたしの幻想の耳よ。

(『聖三稜玻璃』の「Á FUTURE」冒頭部分)

 

山村暮鳥の『聖三稜玻璃』を今の私にはそれほど興味深く思うことはないが、唯一の散文、「Á FUTUR」は、私が詩を書き始めて間もない七十年前後に、「現代詩手帖」で一世を風靡した詩誌「騒騒」の帷子耀や金石稔や山口哲夫らを思い起こさせるものがある。以後、詩壇の先祖返り的雰囲気の中で省みられなくなった。大岡信氏は「大正詩序説」で暮鳥の散文詩を、「無秩序で乱雑な、しかし何度読み返しても強く惹きつける不思議な力をもった散文詩は、口語自由詩がもたらした言語意識上の解放感なくしては書かれ得なかった種類のまさに「ばくれつだん」的な存在であった」と評した。また、昭和初期のモダニズム詩、現在我々が書きつつある詩にまで通じるもの、「現代詩の病の、おそらく最も早いあらわれ」、「詩人自身にとっても稀にしか出会うことのない種類のデーモンの訪れを暗示している」と指摘する。「病い」であり「デーモン」と大岡氏がいう、言語上の意義を文学全体から考察しなければならないだろう。インスピレーションから生み出される言葉群の向こうに見えてくる未知なる地平へ惹気、そこに詩人が生きるべき空間を見出そうとする、あるいは思想性を発見しようとする、遊戯的言語とは全く別種の真摯さである。このような言語への重い比重は、私自身の詩の出発と深く関係することであった。そこから文学の普遍性へ脱出するには、文学と経験の「ゼロ地点からの出発」を私は強いられ、「経験」と言語の背離と融合、詩作と哲学と神学のアナロジー的接近を試みる方向へと考察を進めている。

 先にも挙げた藤原定の「「感情」詩派の新風」によると、『聖三稜玻璃』以前に、一九〇九年、イタリアのマリネッティが「未来派宣言」をパリの「フィガロ」に発表したり、表現派やフォーヴィズムや立体派などの新興言述運動が起きていて、第一次世界大戦勃興前の異常な社会不安と精神文化の動揺による必然的な所産であったという。それらとは直接一致しないが、印象主義、象徴主義の芸術を否定し乗り越えようとした芸術衝動においてヨーロッパの新興芸術運動に相応するところが多分にあったと主張する。

 大岡氏の「朔太郎問題」という論考において、朔太郎が暮鳥と共有していた言語革命的な磁場から生み出された、「聖餐餘録」や「遊泳」や「秋日歸郷」が『月の吠える』からなぜはずされたのかを設定し論じていることを北川氏は前書で紹介している。大岡氏の考えは、朔太郎は短歌の世界につながる自分自身の世界を自覚し、「におひ」の香料を加えることによって多くの読者に受け入れられることを考慮したという。朔太郎自身は、「日本における未来派の詩とその解説」という論考で「あまり進みすぎたるものは、遅れすぎたものよりも危険が多い」と述べる。仮に朔太郎が、論理的錯乱の世界のスタイルを保ち続けていたら、『月に吠える』の詩壇的成功はなかったであろうし、暮鳥の『聖三稜玻璃』の蒙った運命、つまり詩壇からの追放が証明しているという。作品を内容と形式に分けて考えてみると、作品の評価、あるいは読者の好みはそのバランスにあるように思われる。内容重視で表現上の未熟さが目立てば読者を十分に納得させず、反対に形式、つまり表現上の技巧が強調されれば内容は後ろに引くか、無きに等しいものになり、いわゆる難解な詩に堕してしまうだろう。また時代とも連関し、躍動期には方法論が先行する。

 

詩誌「ヒーメロス32号」20016年2月4日発行より一部を紹介

 



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