ヒーメロス通信


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「他者たちの褥(しとね)」 小林稔詩集『遠い岬』より掲載

2016年01月29日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

   他者たちの褥(しとね)

 

闇を攪拌(かくはん)する肉の鋏は、たとえば巨大な蟹のそれに似て夜の眠りを

むさぼるように棲息しつづけ、夜具に被われた幼年の肢体を捕える。

海のふところに頚(くび)を抱かれ、頭髪を藻のように静かな流れに遊ばせ、

私は陽光の名残りをその肌に感じ入る。繰り返す偶然の航跡が必然

の糸をたぐりよせて一つの命をつくり船出させたのであったが、命

はそこがふたたび還る場処であるかのように記憶しては忘却してい

く。のちに性の匂いと名づけられた、魚群の放出する精液を感覚器

はすでに受け入れていた。遠くではいく度も花火が打ち上げられた。

 

やがて帳をひらく〈時〉の推移に身を裁断するように母は、まどろ

む私を置いて台所で葱を刻み始める。産声を上げたときの原初の記

憶に呼び止められていた私は、瞬時に夜を忘却し身支度をする。同

じころに異なる処で闘いつつ旅をつづけて地上に生を受けた類たち

のいる場処に向かう。自己を知るには他者という鏡が必要であった。

 

銃口を押し当て私を狙い打つ他者がいることを知ったときの驚愕。

火薬の鼻をつく匂い。一方で私に渦巻いていた名づけられない火が

他者の体躯に向かい身を焦がし始めた。まるで自身の身体の部位を

確認するように指を這わせる。所有したいという欲求、それは美を

知る端緒にさえなったのであったが、私が視線で捕らえた領野に他

者の銃口を見出したとき、雷鳴が烈火のように私の輪郭を走り抜け

た。狂おしいほどに相似なるすべてのものを愛するようになった。

 

他者の祠(ほこら)に私が忍びこむ。身を焼く他者と共生し生成する私とは生

きつづける他者たちの褥(しとね)である。足萎えや未熟児の消えざる傷痕に

鍛えられ分裂と凝縮を反芻する。かれらは幼年のままに老いていく

魂の深遠に棲み、さらに生まれくるものたちの微熱を私は身体に受

け留めようと執拗に迫った。

 

詩集『遠い岬』より「脾肉之嘆」(六)



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