ヒーメロス通信


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朔太郎論/ロマン主義的精神と朔太郎・小林稔

2016年06月16日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その三・小林稔

日本現代詩の源流

萩原朔太郎における詩人像(二)

ロマン主義的精神と朔太郎

自然主義もロマン主義も西洋からの輸入に過ぎない日本のそれらは、当然ではあるが日本的な解釈をほどこされかなり変形をこうむられた。先述したように、エミール・ゾラの「没主観の科学的観察」という観点から距離を保ち、島崎藤村の「破戒」や田山花袋の「蒲団」などの小説の世界で日本の自然主義文学が試みられ、作家の体験を赤裸々に描くという私小説化の流れが見られた。そこでは文章語から口語への移行が一つの要因とされよう。

朔太郎においては、文学への出発となった自筆歌集『ソライロノハナ』で指摘したように、文学と詩人としての現実との接触が一義的な主題として成立してきた。白秋や犀星の文学的現実との相違であり、一方では暮鳥の『聖三稜玻璃』に見られる言語的現実の探求とも距離を置くことにもなった理由である。私見によれば、現実と文学の抜き差しならぬ関係はランボーに近いものがあり、さらにランボーを誘発させたボードレール、さらにボードレールに多大な影響を与えたエドガー・ポーに留意する必要があろう。つまり朔太郎の文学は、ドストエフスキーを含めた西洋の近代文学を日本的土壌、つまりいかに日本の詩がグローバルな地点で可能になるかという使命感さえ意識しながら、現実の人生との格闘という卑近距離からの視点と、反対に普遍的な視点、つまり哲学的視点を兼ね備えていたものであった。その苦悩と限界を彼自身が熟知していたと言ってよいのではないか。認識し、さらに詩として開花させる詩人の生。ランボーの「思想の開花に立ち会おう」とする激しい意思を汲み取ることができる。三好達治が指摘する、「(朔太郎)の詩的態度、人生態度の根底には、明治後半以後の自然主義精神の湿潤が支配的なあるものとして潜在していたのではないか」という三好氏の臆見があり、「自然主義に対する勝手な誤解」という三好氏の指摘は的外れである。三好氏は、朔太郎の絶えず自分の人生を見つめようとする文学観に対してたんに自然主義的と言っているに過ぎない。三好氏は「実生活的な傾向を持つ一線は、始終貫かれている」というが、それゆえに詩人朔太郎の魅力が存在する。現代文学や哲学が己の存在から始める特質を持つことを思い起こすなら、思想の原点に立つ稀有な詩人である。

 

私の情操の中では、二つの違ったものが衝突している。一つは現実にぶつかっていく烈しい気持で、一つは現実から逃避しようとする内気な気持だ。この前の気質は「叛逆性」で、後の気質は「超俗性」である。前者は獅子のように怒り、後者は猫のように夢を見ている。私の思想にはポーとニーチェが同時に棲んでいる。私が芸術的感興にのってくるとき、いつもポーの大鴉のように、神秘な幻想境に入ってしまう。この芸術の至境には不平もなく議論もない。この世界は私にとってユートピアであり、唯美であり、三昧であり、慰安であり「自我を完全する所」の「芸術」である。願わくば私はいつもこの「芸術」の世界に住んでいたい。しかし私の中には、一面非常に非芸術的な気質があり、現実に執着しながら、現実に向って歯をかみならし、あらゆる環境に対して敵気の牙をむく叛逆性がある。

                       (朔太郎『烈風の中に立ちて』「日本詩人」大正十五年)

 

右記は朔太郎自身による自己分析である。己に棲まう「叛逆性」と「超俗性」。前者は結果的には『氷島』において頂点を極め、後者は『青猫』に結集された。彼がいう「非芸術的な気質」はニーチェなどに奮起された哲学への志向であり、本来は詩に内在する「生への眼差し」である。

ヨーロッパの詩が日本において成立する条件の一つと言ってよいだろう。朔太郎はこの日本に稀有な詩人像をどこから身にまとうようになったのかを考えたとき、内向的性向と西洋への関心がある。それらは「生活なき生活者の夢幻的観念、単独者的情念を掻立てる――いわば青年のロマン的気質と人間存在にまつわる実存感によると言える」と三好豊一郎氏は指摘する。

かつて古代ギリシアにおける抒情詩の発生が、ホメロスの叙事詩以後、大動乱期の個人主義的土壌から哲学と抒情詩が、ほぼ同時期に生まれた精神の土壌を分有することに留意するなら、西洋の詩の概念には強い現実意識と哲学的思考が内在し、変遷を繰り返し継承されてきたことが知られている。抒情詩の発生の源泉には哲学と共有する精神的思考ルーツがあったのである。

 

象徴主義の源泉としてのポーの詩学

 

詩は真実ではなく快楽をその直接の目的とする点で、科学の仕事と対立し、また明確な快感の変わりに、漠たる快感を目ざす点で(この目的が達せられる限りにおいて、詩となる)、ロマンスと対立する。ロマンスは明確な感覚をつたえるイメージを提供し、詩のイメージは、漠たる感覚のそれであり、その目的のためには音楽こそ本源的である。甘美なる音の知覚こそ、我々の最も漠たる知覚だからである。快感と結びつかぬ音楽は、たんに音楽というに止まる。音楽なき思念は、その明確性の故に散文である。

エドガー・アラン・ポー(ニ十一歳)

 

右記の引用は佐伯影一氏の「ポーの生涯と作品」(新潮社版「世界詩人全集」6の解説)からの引用である。佐伯氏によると、詩人ポーは「象徴主義の源泉」というべき存在であるという。T・S・エリオットでさえ「ボードレールに始まり、ヴァレリーにおいて頂点に達するこのフランス詩の伝統」を語るとき、「ポーに多くを負うていることを忘れてはならぬ」と言い切っているという。ポーの詩には、本国人(アメリカ人)の耳には、滑らかすぎ、甘美すぎ、音楽的にすぎるふしがあり、「ポーの音楽性は、とくに異国の読者の耳に訴え、楽しませるような口当たりの良き種類のものであることまでも匂わせたのは、オルダス・ハックスレーであったという。科学的精神とその散文的な態度が詩的想像力とその主題たるべき美は地球から追放され、そこで詩人がなすべきことは、遠い異界のヴィジョンを唱い上げる。「思想でないところの、微妙繊細なる一種の空想(ファンタジー)にして、私がいまだ言語を適用することの全く不可能なもの」をポーは語る。「空想」は「極度に張りつめた静謐の瞬間にのみ、ふと魂のうちに生起する何物か」であり、「夢の世界と醒めた世界とが交錯する瞬間に訪れる。ポーが「他界の一瞥」と呼んでいたもので、「まさに眠りに落ちようとする寸前で、しかも自分でその点を意識している瞬間で、強烈な恍惚感をもたらすと佐伯氏はいう。

私が度々引用するヴァレリーの『ボードレールの位置』という論評には、ボードレールとポーの「価値の交換」が述べられている箇所がある。

 

二人はおのおの相手に、自分の持つものを与え、自分の持たぬものを貰います。ポーはボードレールに斬新深奥な思想の一体系をそっくり引き渡します。これを啓発し、豊饒にし、多くの題目についての彼の意見を決定してやります。詩作の哲理、人工的なものの理論、近代的なものの理解と決定例外的なものとある種の奇異さの重要性、貴族的態度、神秘性、優雅と明確の趣味,政見すらも……全ボードレールは彼に浸透され、霊感され、深められます。これらの財宝と引き換えに、ボードレールはポーの思想に、無限の広褒を得させます。彼はこれを未来に提出します。※マラルメの雄大な詩句にある、詩人を彼自身に変ずるこの広褒をば、憐れなポーの亡霊に開き、確保してやるのは、ボードレールの行動であり、翻訳であり、序文類であります。(ヴァレリー『ボードレールの位置』)

         ※「永遠がつねに彼を「彼自身」に変ずるごとき……」(マラルメ『エドガー・ポーの墓』

 

ヴァレリーは、ボードレールにおいて初めてフランス詩歌はフランスの国境を出て、多くの人々に読まれ、詩人たちにも影響を与えたという。その要因の一つは、「批評的叡智と詩的効力を兼ね合わせるという例外的事情」にある。朔太郎も評論を数多く残していること。二つ目の要因は、ロマン主義全盛期に詩人としてすべきことは、先行する高名な詩人たちと異なることをすることが求められたこと。朔太郎が、白秋でもなく犀星でない別の道を進むことを意識せざるを得なかったのと同様である。ボードレールはロマン主義の巨匠たちを観察し、ロマン主義の弱点と欠落を確認し、巨匠たちの成し得なかったことをしようとしたのだとヴァレリーは指摘する。

佐伯氏は「感覚の強烈な乱用による新しいヴィジョンの獲得を主張し、実践したランボーとのつながりを――象徴主義としての源泉としてのポーの意味を思い合わせるべきであろう」と指摘する。佐伯氏は、ポーに「他界」を夢みるプラトニストの一面を見るが、朔太郎が『青猫』の序文で自ら記す、「私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢい(、、、、)を聴くであろう。その笛の音こそはプラトオのエロスーー霊魂の実在にあこがれる羽ばたき――である。」朔太郎がプラトン哲学をどのくらい深く理解していたかは別にして、感情的に共感を持っていたに違いない。

このようにしてポーやボードレールの詩的営みに朔太郎との共通点を辿ったのであるが、朔太郎は、大概的に捉えればロマン主義の特色を持つ詩人と言えるが、遠い異界に思いを漂泊させながらも、絶えず自分が置かれた現実の生活や故郷に連れ戻され喪失を嘆くという、両極に牽引された詩人像が浮かび上がるのである。

 

リリシズムとイロニー

朔太郎の「陽のあたる部分」を継承した詩人が西脇順三郎であるという篠田氏の指摘をすでに述べたが、朔太郎の「西脇順三郎の詩論」(『詩人の使命』に所収)を読むと、西脇の詩がいかに自分の詩と異なるのかを明確に分析していたことが知れる。それは、西脇の詩論集『純粋な鶯』を批判した評論であり、一言でいえば、ディレッタントの詩論であると激しく非難している。詩の精神が「非日常的飛躍」にあることは両者の一致するところであるが、それが「なぜ詩人に欲情されるかということの意志の本質問題」について西脇は知らない」という。ポエジーの本質である、「人生において、詩が欲求される必然性と、詩を歌わねばならない生活の悲哀や苦悶を知らない」のだという。西脇は、詩的精神の本質は形態(フォルム)の中につきるとし、全てのリリシズムを排斥して、詩の文学的価値は知性の鑑賞としての興味にしか過ぎないのだという。

「百合や菫の花を愛し、自然の美を好む人が詩人なのではなく、そうした言葉の中に、美のイメージ感じる人が詩人だという」西脇の言葉に共感しつつも、「詩人は花という言葉の表象に、人生において主観しているところのある情感を寄せている」。「主観の生活情操と関係なく、単に言葉の面白さ」を楽しむ人はほんとうの詩人ではなく「言語遊戯者」である。「西脇の文学論には、モラルもなく、人生もなく、意志もなく、ヒューマニティもなく、全ての文学する精神を虚脱された形態ばかりが、解剖台の上の死体のように提出されている」と異常な外科医に喩える。

 

僕はポーから「詩」を学び、ニーチェから「哲学」を学び、ドストエフスキーから「心理学」を学んだ。僕がドストエフスキーを読んだ頃は、丁度「白樺」の一派が活躍して、人道主義が一世を風靡した時代であった。その白樺派の人たちは、トルストイとドストエフスキーとを並列させて、文学の二大神様のように崇拝していた。……しかしドフトエスキーを読んだ後に、僕は白樺派の文学論を軽蔑した。なぜならドストエフスキーの小説とトルストイとは、気質的に全く対蹠する別物であり、……人道主義というごとき感傷観で、二者を無差別に崇拝する白樺派のヒロイズムは、僕にとってあまり子供らしく浅薄に思われた。(朔太郎「ドストエスキーを読んだ頃」『廊下と室房』所収)

 

西脇の詩に形態論や知性の重視、ヒューマニズムやモラルの欠如を批判していることから、それらの対極にあるものを朔太郎が主張していると思ってはならない。飯島耕一氏は、評論集『萩谷朔太郎1』で、ヒューマニズム的な一面を持つ「四季」の同人になったこと、「コギト」や「日本浪漫派」のような「ヒューマニズムをある意味で突き詰めることによって危うくする傾向の確かに底流する場への接近した」ことを指摘する。「朔太郎におけるヒューマニズムの問題は単純ではない」という。また、「朔太郎の内部には、西洋か日本かではなくて、西洋的な知性を持って日本の失われた青春を回復しようという意図があった」とも飯島氏は主張する。西脇からは、詩は道徳論や人生論は無縁であると言うだろう。だが、朔太郎のいう「人生」や「生活」は単純ではない。朔太郎には日本のシュルレアリスムを批判する批評があり、それを先導する西脇への攻撃でもあった。

西脇は朔太郎の「畸形なもの、孤独なるもの、醜悪なもの、生理的なもの、憂鬱なもの、醜悪なもの、罪悪なもの、罪の意識、兇賊的なもの、死体、死といった幻影の世界」に対して「諧謔性」に偉大さを感じ、『氷島』の「漂泊者の歌」は「まともの諧謔(イロニー)を残している」と西脇は考えていたと飯島氏は指摘し、「諧謔の視点こそ意外にポエジーの本質がある」として西脇に賛同している。西脇の詩に「生活の悲哀や苦悶の訴え」の欠如を朔太郎が批判しているが、「詩の形でナマに訴えることを拒否したのではないかと飯島氏はいう。

脳髄は人間の本来の論理性を持っているが、それが過剰に在りすぎると脳髄が圧力を感じ憂鬱になる。脳髄が諧謔を欲するのは論理的憂鬱を軽減するためであろう。(西脇「『詩学』六十七年)

 

リリシズムとイロニーは優れた詩人に内在する両極であるとも言えようが、朔太郎と西脇を引き離す差異の振幅こそが、それ以後の私たちの荒寥たる現代詩の状況を露呈していると考えられないだろうか。

 

詩を書く朔太郎の絶望と今日的問題

『月に吠える』は日本の「近代詩」の独立宣言であったという篠田氏の指摘は先述したが、ここにおいて「近代日本の詩的感受性と呼ぶにふさわしいものが始めて創られ、その方向が定められた」というのである。藤村から白秋に至る詩集群は、近代的意匠に過ぎず、「朔太郎はこの意匠遊びを最初から拒絶した」。しかし私たちが心に留めるべきは、『月に吠える』の病的な幻想世界や『青猫』の抒情的かつ夢想世界に隠された朔太郎の、日本の詩に対する絶望があったということだ。

先述したように、『月に吠える』の後を受けて、西脇順三郎の『Ambarvaria』と三好達治の『測量船』が世に出たが、三好達治が継承したという「影の部分」の内実を考えてみよう。

『青猫』の中の表題となった詩、「思想は一つの意匠であるか」という問いかけは、「自在に動き回る言葉と音に対応するだけの思念の世界の空白、もしくは欠落を痛切に感じとっていた」朔太郎の、「おのれの手中に収めた新しい言語の技法の自在さの持つおそろしさに愕然とした詩人の嘆きに外ならない」と篠田氏は指摘する。先に述べた「おのれの内部の空しさ」である。『測量船』を書いていたころの三好達治は、「口語自由詩の無秩序におのれをいましめ、日本現代詩の未来について暗い予感に襲われていた」と篠田氏はいう。そのことが伝統的定型詩に三好氏を向かわせる。「いかにしておのれのポエジーを十全な形において唱い、表現するかという熾烈な欲望、そして、そのためには現代の日本語がいかに不十分であるかという絶望的な反省」があったともいう。

朔太郎の、「日本近代詩人として詩を書くことの絶望」とはいかなるものであったのか。篠田氏は、「日本の近代詩がついにポエジーたりえなかった絶望」や、「日本の伝統的な詩のあり方がいまや目前に厳として迫っているヨーロッパの詩に対して無力であるという絶望」ではあるが、朔太郎の絶望にはアイロニー的な表現があることを無視してはならず、「自己劇化」せずにはいられないほど深刻であったのではないか、つまり、これらの絶望を生み出した背景に、朔太郎の実生活上の荒廃だけに目を奪われてはならず、「この詩人独自の詩の生理と原理との合体を成就させたのは、彼のヨーロッパ経験というべきものであった」と篠田氏は主張する。その「ヨーロッパ経験が、もし真実のものであるならば、それは必ず彼(近代文学の文学者)を絶望へ導くはずである。この絶望にいかに堪え、そこからかけがえのない珠玉の言葉をつくりだすかが、明治以降の日本の文学者の軽重を測る、ほとんど唯一の基準だといって差し支えない」という。

それでは二十一世紀の日本の現代詩の状況において、ヨーロッパの詩の経験はどのような意味を持つのか、あるいはこのような発想自体が無意味化されたのか。後者であるならば、朔太郎の絶望は解消されていることになろう。しかし、現在書かれ、私の目に触れる詩は、凡庸であり慎ましさをよしとするものが多く、一部では難解さを目的とした詩もあるが、大方はわかりやすい言葉で書かれた詩が評価され好まれている。西欧の詩に関心を示すのは研究者のみで、詩人と自称する人たちは、自由自在に詩作する。彼らは、日本の詩の成立やヨーロッパ経験も思い描くことはないだろう。そこから生まれる芸術全般の狭小化と商業主義に抗して、私は朔太郎以後のモダニズム詩やプロレタリア詩の動向を戦後詩まで考察する一方、短歌や俳句を含めた東洋的思考を、ヨーロッパ詩の領野から統合的に考えていこうと思う。

 

日本の〈詩〉と称する文学は、過去に於いて皆ジレッタントとダンディズムの文学だった。それは民衆の生活とも関係なく、文化の現実とも交渉なく、単に詩人自身の頭脳内でのみ構想されて居たところの、空中浮遊の風船玉文学だった。(朔太郎「西脇順三郎の詩論」)

 

今日の詩的状況はどのように推移したか。「僕らもまた海の向こうに、西洋という蜃気楼をイメージした。だがその蜃気楼は、今日もはや幻想から消えてしまった」(朔太郎『日本への回帰』)という朔太郎の趣旨は、右に引用とした論考と同じことを言っているのであって、日本回帰をすればよしと単純に言っているのではないことを飯島氏は述べている。「蜃気楼が消えて家郷に帰ってみれば、全ては失われているということである」のだという。『氷島』のテーマを思い起こされる。今日では西洋の詩学は研究者のみの対象になってしまった。詩人は日常に視線を浴びせ、方向性を持たぬまま詩的レトリックに心身を注いでいる。「文化の現実との交渉」においても、現代に詩を書く者は深く考察しなければならないだろう。



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